第43話 夜鷹図の女―其ノ伍

 お辰が気負いもなく、さらりと言う。

「で、あたしが夜鷹会所の跡目を継いだって経緯ことなんですよ。いえね。養父母ふたおやが逝ったときに、この仕事から足を洗うって手もあったんですけど、みんな行き場のない女たちばかりなもんですからね。姐さん、姐さんと頼りにされちまうと、なかなか踏ん切りがつけられなくなっちまって……」

 夜鷹会所には、背負しょった借金ゆえに、あるいは親やわが子を養うためなど、れぞれの理由で身を落とさざるを得なかった女たちが集まっていた。

 中には、亭主に女郎屋へ売られ、そのまま身を持ち崩すことになった女もいる。遊廓を年季ねんき明けしたものの、行くあてもなく夜鷹になった女もいる。

 寄るない貧しさにあえぎ、泥水をすすりながらも、自分の肉体からだひとつを元手に、なけなしの意気地を張って生きる女たちを、お辰は見捨てられなかったのだ。

 話しはじめて、半刻(約一時間)が経過した頃、北斎はなぜだかこの女をずっと前から知っているような気がして、

「ときに、お姐さんは、どこの生まれなんだい?」

 と、たずねてみた。

 お辰がふっと唇をほころばせながら言う。

「生まれも育ちも本所割下水わりげすいですよ。ご存知でしょうが、あそこは元来が埋立地なもんで、やたらと蚊やなめくじの多い場所でしてね。でも気風きっぷのいい土地柄で、あたしは好きですよ」

 本所割下水は北斎が生まれた場所でもある。

 割下水と聞いた途端、北斎はお辰の顔をまじまじと見つめた。北斎の中で幼少期の記憶がまざまざとよがえる。なめくじ長屋のどぶの匂いや井戸の水の不味まずい味ととともに、甘えん坊の気弱な少女の面影が目の前の女と重なった。

 お辰という名前、下唇の右端にある黒子ほくろ、しかも割下水生まれ――間違いない。絶対に人違いではない。そうだ。同じ亀沢町のなめくじ長屋に住んでいた、あのお辰坊に間違いない。

「オメエさん、餓鬼の頃、なめくじ長屋にいたお辰ちゃんだろ!」

 一瞬、お辰が二皮眼を大きくみはり、絶句した。

「オイラ、隣のやさにいた、ほら、はなったれの時太郎ときたろうだよ。おぼおぼ》えてるかい?」

 北斎が思わずお辰の肩をつかみ、おのれの幼名を告げた。

 女の長い睫毛まつげがまたたく。

「えっ、時太郎……もしや時ちゃん、時にいちゃんかえ」

「そうさ、そうだよ。オイラだよ。二十年ぶり、いや、あれからもう二十五年は経つか。お互い変わっちまって、浦島太郎も無理はねえ……」

「ひっ」

 感きわまったのか、突然、おどろきとも喜びともつかぬ声をあげて、お辰が北斎の汗くさい首根っこにかじりついてきた。と、同時にうめくような嗚咽おえつを洩らしはじめた。

 お辰の目からこぼれ落ちた熱いものが北斎の首筋に滴る。

「オメエさんも、いろいろあったんだな。けど、泣き虫お辰坊は、昔とちっとも変わらねえ」

 その言葉に応える代わりに、お辰は北斎の首にまわした腕に、さらに力をこめてむせんだ。

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