第40話 夜鷹図の女―其ノ弐
北斎は剃刀の刃先を、間一髪のところで
だが、わずかに躱しきれなかったとみえ、鋭利な刃先が北斎の顔面をかすり、頬に一筋の赤い線を走らせた。傷口から
猪首女が、なおも剃刀を振りかざし、次の攻撃に移ろうと身構えた。
「お熊さん、お止めっ!」
猪首女を一喝して、束ねのお辰がゆっくりと切れ長の眼を北斎に向けた。
その黒目がちの双眸からは、強い光が放たれている。
刹那、北斎の脳裡に稲妻のようなものが奔った。
夜の女にしておくには、
吉原の花魁にも、これほど
――すげえ。この女を描きてえ。
北斎は頬の傷の痛みも忘れて、女の
それから、二、三日を経た昼過ぎのこと。
六尺の大きな図体を
油照りの日で、滅法界、蒸し暑い。
通りに面した薬種問屋や呉服屋などの見世先には、いずりも紺色の
額から滴り落ちる汗を
通りをゆく北斎の足取りがどこやらおかしい。実は、ここ二、三日、水っ腹なのだ。空腹のため、太腿から膝、足首にかけて力が入らず、
北斎の目当ては、前々からつきあいのある蔦屋である。
とりあえず当面の
吉原引手茶屋の
これが思いのほか大当たりを取り、それから十年後の天明三年(一七八三)には一流板元の並ぶ、この日本橋通油町に進出していた。
一代で江戸随一の板元にのし上がっただけに、蔦重は
北斎にも何かと親身になってくれ、この頃は京伝や馬琴が書いた黄表紙本の挿絵仕事をまわしてくれていた。
北斎は耕書堂の見世前に佇み、間口いっぱいに張られた水引暖簾を斜に見あげた。軒をくぐると、見世の中は草双紙や錦絵などを需める客で混み合っていた。
腹がへって幽鬼のごとく立ち尽くす北斎に、見世の奥から声がかかった。
「おい、おいっ、そこのお人!」
声のしたほうに、北斎がゆっくりと頭をめぐらすと、
「ほらっ、この間の夜……。へへっ、
「オメエっ、
白瓢箪は自分の
「へえ。おかげさまで、これ、このとおり。お前さまは、わっちの
と、頭をぺこりと下げた。
これが、北斎と十返舎一九との出遭いであった。
一九も馬琴や英泉同様、武士の出である。
刀を捨てた一九は、
北斎と面識を持ったこの当時は、上方から舞い戻り、蔦屋の
一九がかの名作『
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