第41話 夜鷹図の女―其ノ参

 浅草柳原やなぎっぱらの一件があって、ひと月が経過した。

 梅雨明けを告げるような半夏生はんげしょうの強い陽差しが、本所の町々に降り注いでいた。

 その日、北斎は朝方から、ひと山百文の団扇絵うちわえせわしなく描いていた。

 時刻はすでに昼八ツ(午後二時頃)。暑い。うだるような暑さである。

 北斎が額に噴き出た汗を拭うべく、枕屏風まくらびょうぶに引っかけた豆絞りの手拭いに手をのばした、そのときであった。

「もし。ごめんなさいよ」

 と、横網町の棟割長屋におとないを入れた者がある。

「だれでえ?」

 と、北斎がいぶかしげに片眉を持ち上げると、油障子の向こうから、再び女の遠慮がちな声がした。

「もし……」

 それは聞き覚えのない声であった。

「なんか用か、九日十日、なんだ神田の大明神」

 下らぬ地口じぐちをつぶやきつつ、北斎は手にしていた絵筆を口にくわえ、土間口へおりて表戸をガラリと開けた。

 途端に強烈な陽射しが目に飛び込んできた。

 北斎がまぶしげに目を細めると、すすけた油障子の外に、西陽を背に受けて一人の女が立っていた。その白くほっそりとした手には青々しい竹籠たけかご長命寺ちょうめいじ名物の桜餅である。

「お仕事の邪魔をしちゃいましたかね。いつぞやは、うちの身内の者が手荒な真似まねをして、勘弁なすってくださいよ」

 夜鷹会所のお辰であった。

 白い襦袢じゅばんが透けて見える茄子紺なすこんの単衣は衣紋を抜き加減に着付け、白の博多帯に翡翠色の帯〆。つぶし島田に結いあげられた黒髪には、飴色のこうがいがすっと挿し込まれている。

 菖蒲の花を連想させるお辰の凛とした容姿に、一瞬、北斎はわれを忘れた。

「おやおや、狐につままれた顔をしちゃ、ですよ。この前、あたしの絵を描きたいと、散々口説いておいて、お見忘れですか」

 お辰は北斎の表情を見て、紅の唇をほころばせた。その口元にぽつんとひとつ婀娜あだ黒子ぼくろ。ぞくぞくするような艶っぽさだ。

「忘れるなんて、とんでもねえ。つい見蕩みとれちまってね。野郎に弁天、猫に鰹節かつおぶしってわけさ」

「女は化け物ですから、気ィつけたほうがよござんすよ。それに、この着物だって、柳原の古着屋で買ったものなんですから」

 さばさばとした気性らしく、北斎が訊かないことまで口にする。

 柳原には、古着売りの床見世が長さ十余丁の土堤の端から端までズラリ軒を連ねている。夕刻、陽が落ちて、それら菰掛こもがけの見世がまると、入れ替わりに夜の女がそこかしこに現れ、商売を始めるという寸法であった。

 不意の出来事に、北斎は内心どぎまぎしながらも、お辰を中へうながした。

「まさか、絵を描きたいと口説いたものの、本当に来てくれるとは、ありがてえ。ささ、汚ねェところだけど、ェってくんな」

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