第38話 勝川派破門―その肆

 北斎は写楽の大首絵を見た日の夜、悪夢にうなされた。

 闇から「お待ちなせえ」と現れた奴江戸兵衛やっこえどべえが、ぎらりと白刃を閃かせ、逃げる北斎の背中を断ち割るという悪夢であった。「ぎえっ」と振り向き、江戸兵衛を恨みの表情で睨むや、今度はおのれの首が血飛沫ちしぶきとともに虚空にふっ飛んだ。

 しかも、気味の悪いことに、路上に転がり落ちた自分の生首が、血走った両眼を大きく剥き出して、けけけっと自嘲気味にわらうのである。

 その悪夢は、毎回同じ筋立てで幾夜もつづいた。

 北斎は写楽の大首絵から受けた衝撃から抜け出せずにいたのだ。

 ――ええいっ、オイラとしたことが気弱になっちまって。らっちもねえ。

 くさくさした気分を晴らすには、酒か女が手っ取り早いが、北斎は生憎あいにく下戸だ。

 貧窮のどん底にあえでいた前年の夏、女房を病で死なせていたこともあり、黄昏たそがれ時ともなると、おのずとその足は、夜鷹、舟饅頭ふなまんじゅうといった女を求めて、岡場所などの悪所をさまよった。

 梅雨も間近の夕間暮れ。

 北斎はその頃住んでいた本所横網町よこあみちょうの長屋を抜け出した。

 いつものように大川の川風に吹かれながら、ちゃぷちゃぷと音を立てる百本杭ひゃっぽんぐいの前を通り抜け、両国橋を渡る。

 橋を渡れば、そこは日中なら江戸有数の盛り場として賑わう両国広小路だ。

 両国広小路には、葦簀よしず張りの水茶屋、楊弓場ようきゅうば、髪結床、さらは小間物、古着、菓子などを売る床見世とこみせはもとより、こも掛けの芝居小屋、怪しい見世物小屋などが棟割長屋のような形で軒を列ねている。

 だが、陽の落ちた今時分は、それら小商いの床見世や芝居小屋はすっかり店仕舞いし、昼の喧騒さわぎが嘘のように静まり返っていた。

 この広小路は対岸の東両国広小路同様、本来火除ひよけ地である。そのため、夕方にはすべての見世や芝居小屋は営業停止が義務づけられていた。

 その静寂しじまの中、時折、按摩あんまの笛の音がどこからか流れてくる。その笛の音に合わせるように、犬の遠吠えが遠くから響く。

 北斎は浅草御門を横目に見て柳原やなぎっぱら土堤どてを進む。そこは巻き茣蓙ござをかかえ、手拭いを吹き流しにくわえた夜の女がたむろする場所だ。

 風が吹いた。月が雲間から顔を出し、煌々と輝いた。人通りはほとんどない。土堤の下には、頭から菰をかぶった物乞いが一人、死んだように寝転んでいる。

 前から長包丁を落とし差にしにした浪人者がやってくる。

 ――まさか、奴江戸兵衛ではねェだろうな。

 北斎は用心しながら浪人者とすれ違った。

 三丁ほど歩くと、土堤の暗がりから手招く声。

「ちょいとお兄哥にいさん。遊んでいっておくれでないかい」

 が、女の顔をちらっと見ると、毒々しいほどの厚化粧である。

 ――かさ(梅毒)持ちやももしれぬ。桑原、くわばら……。

 と、構わず突き進むと、柳の木に背をもたれかけた夜鷹が、ちゅうちゅうと陰気な鼠鳴ねずみなきをして気を引こうとした。

「オイラ、悪いが陰気と悋気りんききれェだ」

 と、ぶつくさつぶやきながら、さらに行くと、和泉いずみ橋を過ぎたあたりで、突如、男の甲高い叫び声がした。

「わ、わっ、わりかった。勘弁してくれっ。許してくれっ!」

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