第37話 勝川派破門―其ノ参

「他派の絵を真似るうつけ者!」

 と、北斎は糾弾きゅうだんされ、十九歳の入門時から二十三年間、修業の場であった勝川派と決別した。たちまち暮らしは困窮した。 

 それまでは師匠の春章から可愛がられ、また勝川派の看板を背負っていたこともあり、さまざまな錦絵や黄表紙、洒落本の挿絵仕事などにありつけた。

 しかし、破門されたことにより、もはや春朗という画号は使えない。兄弟子たちの手がまわっているのか、馴染みの地本問屋じほんどいやなどからも、冷たく手の平返しをされ、一枚七、八文の板下絵の仕事すらまわしてくれないのだ。

 仕事はない。銭はない。米櫃こめびつも空になってきた。ないない尽くしの貧乏暮らしといえど、なんとか露命だけはつながねばならない。

 やむなく柱暦、唐辛子、付木つけぎ(火を移すときに用いる木片)などを足を棒のようにして売り歩いたが、それでも小銭を手にするのが関の山。お先真っ暗な状況に直面した。

 そんなある日、神田明神下の台所御町おだいどころまちを通りかかると、絵草紙屋の見世先が大勢の客でごった返しているではないか。

「なんでえ、なんでえ」

 と、人だかりを搔き分けて前へ出た途端、北斎は「うっ」と息を呑んだ。

 間口二間の見世座敷に、並べられたものは、大判黒雲母摺きらずりの役者絵の数々であった。それも、異様なまでにすごみのある大首絵である。

 描かれた役者たちが、いまにも紙から飛び出してきて、動き出しそうな緊張感が胸にぐわっと迫ってくる。

 ――すげえ、どこのどいつの絵なんだ。

 思わずその大首絵を手に取り、絵の端に目を走らせれば、東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくという落款がある。

 ――写楽なんて名は聞いたこともねえ。

 板元はどこだ、と落款の下を見ると、蔦屋重三郎の「山形に蔦」紋。

 この当時、蔦重は、寛政の布令による筆禍をこうむり、身上しんしょう半減(財産の半分を没収)という闕所けっしょの沙汰が下されていた。山東京伝の洒落本三作が出板統制に引っかかったのである。京伝本人は手鎖てぐさり五十日の処罰を受けた。

 蔦重の悲劇はさらに重なった。

 手塩にかけて人気絵師に育てた喜多川歌麿に見限られたのだ。まさに後足あとあしで砂をかけるがごとくの仕打ちであった。

 しかし、いかに弱り目にたたり目とはいえ、蔦重には江戸随一の書肆ふみやとしての意地がある。ここは、なんとしても一発逆転の大勝負をかけて盛り返さねば、男がすたるというものだ。

 その意地の噴出が、この写楽の役者絵であった。

 三代目大谷鬼次おおたにおにじやっこ江戸兵衛が、そして初代谷村虎蔵の鷲塚八平次わしづかやへいじが、さらに四代目市村蝦蔵えびぞうの武村定之進さだのしんが「どうだ、これが写楽でい」と言わんばかりに眼を剥く。市川男女蔵おめぞう奴一平やっこいっぺいが「しゃらくせえ」とばかりに白刃をぎらつかせる。

 従来の役者絵にはない迫力、途方もない力感のみなぎりであった。北斎は写楽の大首絵を手にしたまま、しばし絵草紙屋の前で打ちのめされたように呆然と立ちつくした。

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