第35話 勝川派破門―其ノ壱

 お栄が山谷堀のお富司と会っていた頃、北斎は釣瓶つるべ蕎麦の味を堪能し、やがて天秤棒を肩に見世の外へと出た。見返り柳は相変わらず、風にざわざわと揺れている。

 北斎は柳の下に立ち、昔のあの頃のように吉原のほうをを見返ってみた。

 衣紋坂えもんざかの向こうに、黒塗り板葺いたぶき屋根をのせた冠木門かぶきもん鉄鋲てつびょういかめしくそびえる。それが、花魁などの遊女三千人を擁するくるわの入り口、吉原大門おおもんである。

 大門をくぐると、仲之町なかのちょうの目抜き通りがまっすぐに伸び、両側に二階建ての引手ひきて茶屋が軒を列ねている。

 北斎の脳裡に、蔦重つたじゅうこと蔦屋重三郎などの板元を通じて知り合った戯作者や絵師の顔がよぎった。ともに廓遊びに興じた連中の笑い顔やおどけた顔が走馬灯のように浮かんでは消える。

 北斎は風に揺らめく柳の枝の下で、独りごちた。

「おいらも来年九十だ。世間のやつらから見れば、オイラはくたばりぞこないの老いぼれ絵師にすぎねえ。勇助ゆうすけ(喜多川歌麿)も死んだ。熊吉くまきち(歌川豊国)も死んだ。伝蔵でんぞう(山東京伝)も与七よしち十返舎一九じっぺんしゃいっく)も瑣吉(馬琴)も、おまけに善次(英泉)までもが逝っちまった。どいつもこいつも、みんな冷てェ墓の下だ。だがな、オイラはどうあっても死にたくねえ。大往生なんか願い下げだ。あと五年か十年、いやさこの先二十年でも娑婆しゃばにへばりついて、描いて、描いて、描き狂って極上上吉じょうきち、唯一無二の真正まことの絵を描いて、心底納得のいくまでは、死んでも死にきれねえ」

 その北斎の妄執を嘲笑あざわらうように、張り見世が掻き鳴らす清掻すがかきの三味の音がなかから流れてきた。遊女たちの嬌声が耳の奥に響いた。

 ――へっ、北斎アホ臭いと、わらっていやがる。おうとも、老いぼれの繰り言よ。ざまァねえ。らっちもねェ妄言たわごとよ。

 そう自嘲じちょうした矢先に、またしても忘れられない記憶が北斎の胸をかすめた。

 それは、ずっと昔、北斎が若い頃に儚くなった一人の女の面輪おもわだ。その女の姿形が、暗がりにともったほおずき提灯ちょうちんのようにぽっと浮かぶ。

 切れ長な二皮眼ふたかわめ、すらりと伸びた肢体、艶めかしい柳腰――はからずも北斎は、穂先の硬い面相筆めんそうふでで描くように、その女の輪郭のすべてをありありとおもい起こしていた。

 北斎は見返り柳の上の虚空を見あげた。

 そこには、一人の女が在りし日のままに頬笑んでいる。

「おたつっ」

 北斎は低声でその女の名を呼び、

「オメエと巡り逢ったのは、忘れもしねえ。神田川沿いのやなぎぱら土堤どてだ」

 と、あの頃を懐かしむかのように独白した。

 たしか……あれは、田所町たどころちょう春章しゅんしょう師匠が病の床にし、医師の手厚い治療もむなしく世を去った頃のことだ。

 もう五十年もめえのことになると、北斎は色褪いろあせた記憶の画帖がちょうを頭の中でめくった。

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