第34話 山谷堀有情―其ノ肆

 お富司は若い女中に香の物の内容まで、テキパキと言いつけた。

「あーい」

 いささか気の利かなそうな炭団たどん娘が、のんびりした声をあげて踵を返すと、その背中にさらに覆いかぶせた。

「それから、先生にくだり物の御酒ごしゅもお付けするんだよ。熱燗あつかんでね」

 お栄が「お師匠さん」「先生」と呼ばれるのには理由わけがある。

 この藤屋の一人娘お喜代きよに、お栄は縁あって二年ほど絵の出稽古でげいこをつけていたのである。

 お喜代はお栄が目をみはるほど素質がよく、めきめきと腕を上げていたが、今年の春先に風邪をこじらせて短い花の命を散らしていた。

 禍事まがごとは重なるものなのか、それからわずか三月みつき後、亭主の喜三郎きさぶろう賭場とばの諍いに巻き込まれてブスリとやられ、無惨にも敢無あえなくなっていた。

 人の世は一寸先は闇である。

 この世に生まれてきたからには、だれしも無傷では済まされない。いずれどこぞで痛い目に遭うのは浮世の定めとはいえ、不倖つづきのお富司の胸のうちは察するに余りある。

 お栄はお富司の辛そうな顔を見るに忍びず、しばらく藤屋から足が遠のいていたのであるが、今日は伝えたいことがあった。

 お富司はお栄の前に湯呑を差し出しながら言った。

「よくおいで下さいましたこと。最後にお会いしたのは、たしか……初午はつうまの頃でござんしたかね」

「ええ、本当にここんところご無沙汰をいたしまして……」

 お栄は櫛巻きの頭を下げ、幾何いくばくかの間をおいてお富司に用向きのほどを述べた。

「……実はお喜代さんの一周忌をひかえ、香華こうげ代わりと言っちゃァなんですが、ここのところ在りし日のお姿をしのぶ絵を描かせてもらってましてね」

「ええっ、そうなんですか」

 お富司が切れ長の目をみはる。

「はい。お喜代さんは胡弓こきゅうの名手でしたので、その面影を絵姿に留めて差し上げたいと思いましてね。お喜代さんの横には、三味しゃみを弾くお内儀さんを描かせていただいて、さらに図のにぎやかしとして琴を爪弾つまび花魁おいらんのうしろ姿を添えます。華やかな芸事が好きだったお嬢さんの御霊みたまをお慰めする三曲合奏図ってェ趣向わけです」

「お師匠っしょさん、そんな……冥加みょうがに余ってもったいない。お気持ちだけでよござんすよ」

「さっきも申しましたが、これは絵師としての、ささやかな手向けの花でございますよ。いずれ仕上がりましたら、お気遣いなく受け取ってくださいな」

「おかたじけなことで……」

 お富司が言葉を詰まらせ、おもてを伏せた。

「それにしても胡弓って楽器は、音色にお人柄が出るもんなんですね。お喜代さんの弾く胡弓は、音がたまらなくのびやかで、広やかで、聴くたびに空の果てに吸い込まれるような極無上ごくむじょうの心持ちがしたものです。いまでも、耳を澄ますと、あの音色が聴こえてくるような気がするんですよよ」

 お富司の長い睫毛まつげがこまかくふるえ、切れ長の目尻から一筋の涙が伝い落ちた。

「あら、だ。目にほこりが入っちまいましたよ。あっ、先生のお膳がまだでござんした。まったく愚図ぐずですみませんねえ。ちょっとせっついてきますから、ごめんなさいね」

 目頭を押さえた指に三味しゃみ撥胼胝ばちだこがある。

 お富司は、下駄の音とともに小走りで板場いたばへと消えた。

 そのうしろ姿が何やらはかなげな薄墨色うすずみいろにかすんでいる――。

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