第33話 山谷堀有情―其ノ参

 名妓「堀の小万」の逸話はなしを書くと長くなるので、この辺で端折はしょるが、その後、彼女は武士と町人のいさかいを見事にとりなしたことで、雲州松江藩の藩主松平出羽守治郷でわのかみはるさとの知遇を得る。

 治郷は逼迫ひっぱくした藩財政を立て直した名君として知られ、不昧ふまいと号した茶人でもあった。

 また、武家でありながら、五代目市川團十郎、人気女形おやまの三代目瀬川菊之丞、江戸落語を再興した戯作者烏亭焉馬うていえんば、強豪力士の源氏山げんじやまなどと親しく交わり、赤坂藩邸への出入りを許していた。

 雷電為右エ衛門らいでんためえもんをお抱え力士にしたことでもつとに知られる。

 治郷の贔屓ひきを受けた小万も赤坂藩邸の常連となり、出羽守さえも平気で蕩児とうじ(浮かれ者)扱いしたという。

 小万はお大尽だいじん遊びをする上客といえども、夜郎自大やろうじだいやからには巻き舌で啖呵たんかを切ったという。

 しかも酒にやたら強く、呑みっぷりがいい。小万の人気はいやが上にも高まり、江戸随一の名妓としてもてはやされた。

 そして、小万三十五歳になった頃であった。

 まだまだあぶらの乗り盛りだというのに、何を思い立ってか、年下の芸妓に二代目小万を譲ると、飄然ひょうぜんと諸国巡礼の旅に出て、そのまま消息を絶った。

 こうした小万の小気味のよさは、同じ山谷堀に生きるお富司にも脈打っている。

 何事にも勘が働き、察しのいいお富司は、お栄の姿を目にしたときから、彼女の足元の異変に気づいていた。

 芳町よしちょう下駄の鼻緒に、うっすらと血がみて、赤黒く変色しているのだ。

 お富司はお栄の鼻緒を見た瞬間、かなりの距離を歩いてここまで来たのだと、敏感に読み取り、いたわりの言葉をさりげなく口にした。

「何やらお疲れの様子にござんすね。ここで立ち話もなんですから、ささ、こちらへお運びなさって、一服つけて下さいましよ」

 お富司は見世の奥へとお栄を導いた。

 客で立て込む小上がりの前を突っ切れば、帳場裏に小さな座敷がある。そこは、お内儀の休憩用の小部屋で、上等の座布団と莨盆たばこぼんが備えられていた。

 座敷に上がったお栄の背に、お富司が声をかける。

「お師匠っしょさん。茶飯ちゃめし程度のもんでよろしかったら、すぐにお膳を調ととのえますけど、それでよござんすか」

 お栄がすきっ腹を抱えていることも、お富司にはお見通しなのだ。

「突然、すみませんねえ」

 お栄が頬笑んでうなづくと、お富司は、たまたま座敷の前を通りかかった小女こおんなを呼び止めた。赤いたすきに、前垂れ姿。炭団たどんに目鼻をつけたような顔立ちの若い女中である。

 蝶足膳ちょうあしぜんを抱えて、きょとんとした顔つきで突っ立つその女中に、お富司は膳立ての内容をこまごまと言いつけた。

 

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