第32話 山谷堀有情―其ノ弐

 藤屋の暖簾をくぐると、お栄の耳に階上から三味の音が押し寄せてきた。酒宴の騒がしさに加え、段梯子だんばしごを下りる音や、廊下を忙しなく行き交う足音が入り混じる。

 藤屋は深川八幡ふかがわはちまん前の平清ひらせいや、同じ山谷の八百善やおぜんなんかと比べたら格は落ちる。が、料理がっている割には値段が手頃なせいか、いつも客でごった返していた。

「おやまっ、お師匠っしょさん。お久しぶりでござんすね」

 藤屋のお内儀かみのお富司ふじが、お栄の姿にいち早く気づいて華やいだ声をかけてきた。

 お富司は、鯔背いなせと粋が売りの辰巳たつみ芸者上がりである。三十路も半ばの年増女とはいえ、雛妓おしゃくの時分からさんざ浮名を流し、ついには深川きっての名妓うれっこに昇りつめただけに、いつ見ても艶っぽく若々しい。

 横鬢よこびんを心持ちふくらませた丸髷まるまげ芳町よしちょうの細いかんざしをすっと挿し込み、首抜き納戸色なんどいろ模様の着物に、上物じょうものの献上博多をはすに締めた図は、錦絵から抜け出してきたようである。

「お内儀さん、いつもお綺麗ですこと。男衆にとっては、さぞや目の毒気の毒、困り山椒さんしょでござんしょう」

「先生、ですよ。揶揄からかわないでおくんなさいな」

 お栄の冗談てんごうじみた愛想に、艶治えんやな頬笑みを浮かべながらも、客や女中らの動きに抜かりなく視線を走らせる。

 船宿のお内儀は、目端めはしが利かないと到底つとまらない。客あしらい、芸者の扱い、船頭のり廻しなど、何から何までお内儀一手の采配となる。

 ときには辰巳仕込みの啖呵たんかのひとつも切って、横柄な野暮天の浅葱裏あさぎうら(田舎侍)や渡世者とも渡り合わねばならない。められては、女がすたる鉄火肌の稼業なのだ。

 文化年間(一八〇四~一八一八)のこの当時、ここ山谷堀に美貌と気風きっぷのよさで嬌名きょうめいを馳せた名妓がいた。

 「堀の小万こまん」である。

 小万は、浅草いろは長屋に住む夜鳴よなき蕎麦屋の娘に生まれたが、十一歳になった折、不幸な出来事に見舞われた。父親が盗みを働き、その金の弁済で山谷堀の船宿・武藏屋むさしやに売られたのである。

 十六歳で小万と名乗り、売り出したものの、美人過ぎる面立ちがかえって仇となっていまひとつ人気がのびない。

 ある日、料亭の八百善によばれた小万がそれを酒席でかこつと、客の大田南畝なんぽ(蜀山人)が筆を執り、小万の三味線の胴裏にこんな戯文を書きつけた。

   詩は詩仏しぶつ、書は米庵べいあん狂歌之公きょうかのおれ、芸者小万に料理八百善

 詩仏は大窪詩仏、米庵は市川米庵、狂歌之公とは南畝自身を指す。八百善を含んで、いずれも江戸の一流ばかり。

 当時、第一級の文人として盛名を轟かせていた南畝の狂歌や戯文は、一筆何十両もの値打ちがあったという。その南畝の直筆で、一流芸妓としての折り紙がつけられたのだ。小万の名は、一躍、江戸の巷に知れ渡った。

 


 

 

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