第31話 山谷堀有情―其ノ壱

 猪牙舟の舳先の向こうに、今戸橋が見えてきた。

 今戸橋は山谷堀の河口にかる橋で、この橋の際にある桟橋が猪牙舟の終点になる。河口の岸辺には、あし真菰まこもが冬枯れて、寒々と風になびいていた。

 舟が桟橋に吸い寄せられるように着岸したとき、お栄は懐中から紙入れを取り出した。

「こいつァ、過分なお心付けを頂戴し、ありがとうごぜえやす」

 船頭に多めの鳥目ちょうもくを渡したお栄は、「足元に気ィつけておくんなせえ」の声を背中で聞きながら、山谷堀へと舟を降り立った。

 古くから待乳山下の山谷堀は、猪牙舟や屋根船で吉原へ向かう男たちの中継地となってきた。

 ここの桟橋で舟を降りた遊治郎ゆうやろうらは、日本堤の土堤どて八丁に上がって、鼻歌まじりに花魁おいらんの待つ遊廓くるわへとそぞろ向かうのだ。

 山谷堀は芝居見物客の往来でも活気を呈した。

 そもそもは堺町さかいちょう葺屋町ふきやちょう木挽町こびきちょうにあった歌舞伎興行の江戸三座が、山谷堀西隣の聖天町に移転させられ、その後、江戸三座が寄り集まった芝居町は猿若町と改名された。江戸歌舞伎の創始者である猿若(中村)勘三郎かんざぶろうの名に因んだのである。

 結句、山谷堀には、吉原や芝居小屋通いの遊山客が大江戸の町々から押し寄せることになる。ために、この界隈には船宿や料理屋がぎっしり軒を並べ、遊興あそびに浮かれる男どもを待ち受けていた。

 お栄が舟から上がると、通りは大変なにぎわいであった。

 昼日中にもかかわらず、料理屋の二階座敷から女の嬌声や三味しゃみの音が響いてくる。吉原昼見世ひるみせ目当ての男どもが、「堀の芸者」と呼ばれる山谷堀芸妓げいこを相手に酒宴を開いているのだ。すでに呑めや唄えやの乱痴気らんちき騒ぎである。

 吉原は夜見世と昼見世の昼夜二回の営業体制を取っていた。

 揚代あげだいの安い昼見世は、昼八ツ(午後二時頃)にはじまり、昼七ツ(午後四時頃)に終わる。

 早めの時刻に山谷堀へ上がった飄客は、ここで中継ぎの一杯をひっかけた後、やおら八丁先の浅草田圃たんぼ(吉原の別称)へ繰り出すのだ。

「旦那、駕籠やりましょ」

大門おおもんまでひとっ飛びでさあ」

「だんかご、だんかご!」

 通りの角に屯する駕籠かき人足が、通行人に濁声を張りあげる。ちなみに「だんかご」とは、「旦那、駕籠いかが」の略である。

 お栄はそうした喧騒ぞよめきを尻目に、見世先に剣菱けんびしの酒樽を積み上げた一軒の船宿へまっすぐ足を向けた。「藤屋ふじや」という屋号を白く染め抜いた路考茶ろこうちゃ暖簾のれんが、川風にかすかに揺れている。

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