第30話 枕絵の英泉―其ノ肆

 お栄も北斎同様、身振り素振そぶりには一切出さないものの、英泉に好意を抱いていた。

 別れた亭主の等明とうめい(吉之助)なんぞとは比較にならないほど画才があり、絵に向かう姿勢もいい。

 それに何よりお栄好みのい男であった。

 筆を休めた拍子などに、ふっと笑いかけてくる人なつっこい眼が実にいいのである。

 英泉は男にしては大きな二皮眼をしていた。

 お栄は英泉の横顔をちらっと盗み見するたびに、「七代目とどこか似ている」と思う。

 七代目とは七代目市川團十郎のことである。

 お栄の暮らす聖天町とは、道一本隔てた目と鼻の先に猿若町さるわかちょうがある。そこは江戸三座の中村座や市村座、河原崎座といった芝居小屋が軒を並べ、いつも人でごった返している。

 北斎と口喧嘩したときや筆休めの際、お栄はしばしば中村座に向かう。無論、贔屓ひきは七代目である。好きな演目は「助六所縁江戸桜すけろくゆかりのえどざくら」だ。

 出端ではの場面、花川戸助六はなかわどのすけろくふんする七代目が、江戸浄瑠璃の河東節かとうぶしにのって花道に駆け出してくる。

 その身形なりは黒小袖に、紫縮緬の鉢巻はちまき姿。花道に響くは桐柾目きりまさめくりぬき下駄の音。

 七代目がつと足を止め、蛇の目の傘を持った右腕を高くあげて見得みえを切る。弱冠二十歳の團十郎の水際みずぎわ立った男ぶりに、お栄は思わず「タヤッ!」(成田屋のこと)と声を張りあげる。

 本来、大向こうの声は男が掛けるものと決まっているが、お栄はそんなことに構うような女ではない。

 女だてらに「タヤッ!」と大向こうをビシッと決め、七代目の姿にうっとりと見蕩れたあとは、筆が機嫌よく進むのだ。

 その團十郎と同様、英泉は大きな二皮眼をしていた。

 お栄は心の中で、英泉に対してひそかに「お役者英泉」という渾名あだなをつけていた。

 三人が艶本えんぽんに打ち込んで、あっという間に一年半が経過した――。

 北斎やお栄はもちろん、英泉の金欠病も銭という良薬が効きはじめ、ひとまず完治した。潤沢に入った画料で、お栄は婀娜あだっぽい子持ち縞の着物を手に入れた。

 英泉はといえば、ここ最近、柳島の十軒長屋に顔を出していない。

 気になったお栄が、

「善さん、ここんところご無沙汰だねえ。もうお見限りかね」

 と、何気ない口調で訊ねると、北斎が口のを少し曲げて言う。

「ふふっ、行ってくるわ紅格子べにごうし。初五郎の話では、あいつは元々お女郎狂いという。ぜぜも入ったし、今日は吉原、明日は辰巳たつみと、うぐいすけきょけきょ谷渡りという寸法じゃァねえのか」

 ――そうか。馴染みの敵娼おんなのところか。

 道理で最近は柳島に寄りつかないはずだと、お栄は合点がてんした。

 とは言うものの、お栄とて女である。 

 心の隅でちらっと甚助じんすけ(嫉妬)を起こしたが、そのような気振りを意地でも見せてたまるもんかというのが、お栄の気性である。

 元来が飾らず、気取らずのおきゃんな下町っ子で、物心つい頃から北斎の弟子たちに囲まれてきたこともあり、男っぽく振舞うのが習い性になっていた。

 まして、等明と破鏡はきょう(離縁)になって以来、「わたいは、そこいらにいる女とはわけが違うんだ。これでも画工えかきはしくれとして、筆一本でお飯を食べていけるんだ」という矜持と意気地が心に壁をつくり、男の前でこびひとつ売れない。

 特に英泉に対しては、好意を胸に秘めているがゆえにこそ、却って冷淡な態度さえ取って、おのれの感情を押し殺してしまうのであった。

「もし、お客さん」

 突然、頭のうしろのほうから、お栄の耳に男の若い声が入ってきた。船頭の声であった。

 刹那、お栄はわれに返った。冷たい川風が、さっと頬を刺すようになぶった。

 船頭の声がつづく。

「見なせえ。じきに山谷堀でござんす」

 夢うつつの彼岸から、現世うつしよへと呼び戻されたお栄は、顔をあげて猪牙舟の前方を見遣みやった。

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