第29話 枕絵の英泉―其ノ参

 英泉は柳島の十軒長屋に足繁く通って来て、北斎の艶本えんぽん仕事を手伝った。

 そのような日々の中で、英泉が最も度肝を抜かれたのは、『喜能會之故眞通きのえのこまつ』に収められた「海女あまと蛸」の図であった。

 岩陰に仰向いた海女の裸身に、大蛸が八本足をぬらりと這わせ、絡ませる。吸盤いぼでそこかしこに吸い付き、その口はもぞもぞと女の秘所かくしどころめる。

 さらに、これに小蛸も加わり、女の口をチュウチュウと吸う。

 海女は昇天寸前である。恍惚陶然たる表情を浮かべ、裸身をくねらせ、悶えつつも、その手で大蛸の足をぎゅっと握りしめ、いまにも昇りつめ、果てようとしている――。

 英泉はただただ唖然あぜんとし、言葉をなくした。

 蛸と海女が絡み合うなんて図は、北斎の独創というわけではない。そんなことは英泉とて絵師の端くれとして知っている。北尾重政しげまさや勝川春潮しゅんちょうの作品にも似たようなものがあるのだ。

 が、この圧倒的な迫力はどうだ。その大胆な構図は他を寄せつけぬほど圧倒凌駕りょうがし、妖しくも甘美な陶酔感に満ちあふれ、この世ならぬものを現出しているではないか。

 それはまさに、鶏群けいぐん一鶴いっかくともいうべき北斎ただ一人にしか描けぬ絶世の春画であった。

 雲泥万里うんでいばんりの力の差を眼前で見せつけられ、英泉は目がくらむような衝撃を受けた。

 以来、英泉の口数はめっきり減った。

 北斎、お栄と必要以上の会話をすることなく、熱のこもった眼で一心不乱に筆を走らせた。

 英泉の働きは、北斎の見込みどおりであった。

 艶本の序文、本文はもとより、図中の科白せりふである「書き入れ」も、英泉は巧みにこなした。しかも、本職の筆耕師ひっこうしに清書させなくても、そのまま板下にまわせる上品じょうぼんの出来なのだ。

 ――駆け出しの若造ひよっこのくせに、なかなかやるわい。

 英泉が時折、垣間見せるかつえたような目つきを北斎は気に入っていた。

 この若者は、どこか野良犬のような雰囲気を漂わせているのである。北斎と同様、ということを知らない。

 ひとたび筆を手にすると、仕事が終わるまでは伸び放題の月代さかやき剃刀かみそりも当てず、寝食を忘れて手を動かした。無精髭ぶしょうひげを生やし、充血した眼を吊りあげて、狂ったように筆を運ぶ英泉の横顔に、北斎は若い頃の自分の姿と重ね合わせていた。

 英泉が通り名で呼ばれるのに、さしたる時間は必要としなかった。

 北斎は英泉を「善次」と、お栄は「善さん」と呼んで身内扱いにした。

 やがて北斎は、自分が枕絵を描く際の隠号いんごうのひとつである「紫色雁高ししきがんこう」を英斎に与えた。

 うれしそうな英泉を横目で見て、お栄が茶利ちゃりを入れる。

「なんだったら、この際、ってェ隠号ももらっときな」

 英泉が苦笑して、手を左右にふった。

 北斎は英泉のことをよほど気に入ったのか、のちに戯作を書く際の号「可候かこう」も、この若者にくれてやっている。

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