第28話 枕絵の英泉―其ノ弐

 英泉の顔がパッと輝いた。

「ま、いいか、ってことは、弟子入りを許すってェことですかね」

「うむ。明日からオイラの仕事を手伝ってもらおうか」

「へ? 読本か、何かの挿絵仕事ってことで……」

「いや、お前さんの枕絵を見て、オイラも久しぶりにワ印をやってみたくなってよ」

「なら、任せておくんなさい。及ばずながら、この英泉、懸命に励ませていただきやす。それに、お師匠。ワ印の中でも、いま一番いっち流行はやりの艶本えんぽんをやりゃあ、お鳥目ちょうもくがっぽり、お宝ザクザクですぜ。なにも歌川派うたがわは連中やつらだけに、いい思いをさせておくことはありやせんぜ」

 弟子入りが決まって安堵したのか、それとも得意の艶本仕事と聞いて勇んだのか、英泉は急にくだけた科白せりふ廻しになった。

 私娼や好色本が厳しく取り締まられた「寛政の改革」からすでに二十年余。綱紀もガタガタにゆるんだ、この文化・文政当時、江戸の書肆ふみやは一斉に読本や滑稽本、春画、艶本などを出板し、町人文化は絢爛けんらんたる春の時代を迎えていた。

 英泉の言うとおり、このようなときに、歌川派だけに旨味のある分野を独り占めさせておくという手はない。秘画艶本の筆をとるには絶好の潮時であった。

 北斎はお栄を見て、言った。

「さて、そろそろ金欠病をぜにという薬で治すとするか」

「あいよっ、お父っつぁん。うちの内所(家計)は火の車。自慢じゃないけど、いつもながら芸者の羽織さね」

「ふん、文(紋)無しってェわけか。オメエも英泉と一緒に励むこった」

「わかってるって。この応為おうい姐さんにまかせときな」

 お栄は葛飾かつしか応為という画号をもつ。お栄に用事があるとき、北斎はいつも「オーイ、オーイ」と呼んだ。それををそのまま自分の号にしたのである。

「よしっ、昔取った杵柄きねづかだ。一丁やるか」

 北斎は勝川派に属し、春朗しゅんろうという名乗りをもっていた時代、『間女畑まめばたけ』『會本えほん松の内』といった艶本を出したことがある。その若い自分の杵柄を再度ふるって、春画というもちきたくなったのだ。

 お栄と英泉を助っ人にして、北斎は俄然がぜん、艶本などのワ印に挑んだ。

 それが、『絵本つひの雛形ひながた』や、のちの『浪千鳥なみちどり』の第一板となった『富久壽楚宇ふくじゅそう』、さらには『多満佳津良たまかつら』などの傑作である。

 北斎の入神にゅうしん筆捌ふでさばきをの当たりにし、日毎、英泉は驚愕し、毒気を抜かれつづけた。

 ――やはりというか、思った以上に、葛飾親爺おやじはすげえや。到底かなわねえ。おそれ入谷の鬼子母神きしもじんだぜ」

 人生体験の少ない若者は、概して「生意気というおり」に自分を閉じ込め、夜郎自大やろうじだいになることができるという一種の特権を有している。

 英泉もまたその若さゆえに、不遜な自信を胸のうちにひそかに蔵していた。しかし、そんな些末さまつな自負や矜持は、木っ端微塵に打ち砕かれた。北斎の人間業とは思えぬ運筆のはやさにも舌を巻いた。

 一匹の小さないわしが、初めてくじらと出会ったのである。

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