第27話 枕絵の英泉―其ノ壱

 英泉と初めて会ったのは、五月雨さみだれのしょぼ降る晩のことであった。

 その日のことを思い出したお栄は、なつかしげに片頬かたほほ笑んだ。

「ふふっ、のっけから、善さんには吃驚びっくりさせられたよ」

 当時、北斎とお栄は柳島の十軒長屋で暮らしていた。その長屋に突然、英泉は飛び込んできて、北斎に弟子入りを乞うたのである。

 北斎が困ったように頭を搔いた。

 お栄が横から口をはさむ。

「なこと、言ったって、うちはご覧のとおりの手狭な長屋さね。弟子なんかとれるわけないじゃないか」

 それを聞くなり、英泉は土間口の湿った地べたに、とんぼのように痩せた長躯からだを折り曲げて、深々と平伏した。

「このとおり、お願いでござる。無論、初五郎はつごろう魚屋北渓ととやほっけい)さんと同じく、通いの弟子ということで十分。ぜひ、私めを北斎先生の門人の端くれにお加えください」

 その挙措動作のすべてが武家式である。縦縞たてじまのはだけた着物の胸元から、ごつごつした肋骨あばらぼねがのぞく。おそらく主家を離れ、食うや食わずの日々がつづいているのであろう。

 北斎が口を開いた。

「お前さん、元はお武家だね。なんで初五郎を知っているんだい」

「初五郎さんは、私めの師匠・万五郎まんごろうさんの兄貴分でして……」

 万五郎とは浮世絵師の菊川英山のことである。北斎の弟子の初五郎と英山とは、双方の家が近所ということもあり、幼馴染の関係であった。

「そうかい。お前さんは万五郎の弟子か。となると、あいつから美人画を習ったわけだ」

「はい、左様で。これ、このとおり」

 と、英泉は油紙に《くる》包んだ一枚の錦絵を、上がりはなの古畳の上に押しひろげた。

「ふむ、お前さんの得手えてはワ印か」

 ワ印とは春画、つまり枕絵のことである。笑い絵ともいう。

 お栄が感嘆の声をあげた。

「なんとまァ、滅法界めっぽうかい、艶っぽいというか、ふふっ、淫らだねえ。白粉おしろいの匂いでむせ返りそうじゃないか」

 北斎も「こいつの腕は、尋常じゃァねえな」と心の中で唸った。描かれた女郎の眼が、狂おしいほどに婀娜あだっぽいのだ。

 月代さかやき青黛せいたいをべったり塗った伊達男に抱かれ、もだえ、あえぐ、女郎の、すーっと横へ流した色目に、北斎はしばし吸い込まれた。

 ――これだけの画才があるなら、万五郎の弟子では飽き足らねェはずだ。狼は犬の仲間にはなり得ねえ」

 北斎は飼い犬のように大人しく、女形おやまのように優しげな菊川英山の面相かおを思い浮かべた。

 絵師の持って生まれた性格や心根は、どこかしら筆に出る。英山の描く美人画もまた然りであった。

 歌麿の影響を受けた英山の絵は、たとえ女郎を描いても、どこぞの大名家の姫君のように、おっとり上品。本人の骨柄こつがら同様、画風が穏やかすぎるのだ。

 その点、英泉の女絵には毒気があり、女のぬめっとした肌触りや、艶めかしい吐息みたいなものが伝わってくる。

 北斎が再び訊いた。

「お前さん、ときに字のほうはどうなんだい。書は達者かい」

 大絵師からの思いがけない質問に、英泉は怪訝な表情で訊き返した。

「はァ、絵じゃなくて字ですか?」

「うむ」

永字八方えいじはっぽうのほうは、亡き父の手ほどきにより、いささかではありますが……。それに千代田淫乱斎いんらんさいというふざけた名前で、艶本えんぽんも何冊か出しております」

 艶本とは男女の秘事を絵や文章で表現した読み物のことで、春本しゅんぽん枕草子まくらぞうしなどともいう。

 北斎が言った。

「じゃあ、ま、いいか」 

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