第26話 過去への猪牙舟―其ノ陸

 お栄はしんみりした口調で船頭に訊いた。

「お兄哥にいさんのおっ母さんは、いつ亡くなったんだんえ?」

「三年前でさァ。流行はやり病でおんじゃって。でも、この形見があると、いつもお袋と一緒にいる気分でさァ。ま、いまさらながらの放蕩どら息子ってェ、情けない図でござんすけどね……」

「………」

 お栄は船頭の「形見」という言葉を心の中で反芻はんすうし、京伝張りの長煙管をそっと膝の上に置いた。

「わたいも、この煙管があいつの形見になっちまった」

 膝の長煙管をいとしげに撫でて、お栄は溜息まじりにつぶやいた。

 ふと遠い目をして、お栄は前方を見た。

 舳先へさきの向こうに今戸いまどのわびしい家並やなみがつづく。

 行く手の川面には、都鳥が群れ遊び、陽の光にきらきらと輝く。

 お栄はその雲母きらのような輝きに、目を細めて見蕩みとれた。

 すると――。

 眼前の波間から、川施餓鬼かわせがきの紙札のごときものがゆらゆらと漂ってくるではないか。それも一枚や二枚ではない。おびただしい数であった。

 波間にたゆたう紙片が次々に眼前に迫り、押し寄せてくる。

 お栄は「あっ」と息をのんだ。

 夢か、うつつか、まぼろしか。お栄は目をみはった。

 それは、妖しくも美しい極彩色の錦絵の数々であった。

 巨根の男たちが好色な女たちとからみ合うさまざまな枕絵であった。

 着物をはだけた遊女が、奥女中が、若衆わかしゅ陰間かげま、生臭坊主といった男たちと淫らにもつれ、うっとりと刹那の快楽けらくに耽る。

 若い間夫まぶを引き入れた亭主持ちの女や囲い者(妾)が、たわわな乳房を揉みしだかれて、せつなげに眉宇びうをひそめる。

 年増の内儀が黒髪をふり乱して、あえぎ声を洩らしながら、つやっぽい肢体を悶えくねらせ、白いのどをのけぞらせる。

 お栄には、それらの枕絵に覚えがある。

 川面の上で、妖しく揺らめく錦絵の数々は、お栄が若い頃、ある絵師とともに描いた春画であった。

 過ぎ去った日々の出来事が、回り灯籠どうろうのようなおぼろな幻影となって、お栄の薄く閉じた瞼の裏によみがえってくる。

 吐息のように秘めやかに、お栄はあの世に呼びかけた。

「善さん、帰れるものならば帰っておいでよ。わたいは、心底しんそこさびしいよ」

 お栄の言う「善さん」とはワ印(春画)絵師の池田善次郎こと渓斎英泉けいさいえいせんのことである。

 英泉は、脂粉しふんの匂うような退廃的な美人画で一世を風靡ふうびしたが、この嘉永元年(一八四八)の夏、酒色に耽溺たんできした長年の無茶がたたったのか、思いもかけぬ急死を遂げていた。

 お栄の心のうちに、英泉の面影がまざまざと浮かぶ。それは馬琴とはまるきり正反対の人なつっこい笑顔であった。

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