第25話 過去への猪牙舟―其ノ伍

 猪牙舟が吾妻橋をくぐり抜けると、花川戸はなかわどの町屋の向こうに、小高い森が見えてきた。歓喜天かんぎてんを祀る待乳山聖天まつちやましょうでん(本龍院)だ。

 寺の境内をこんもりと覆う樹々の小梢こずえの先に、からすが黒々と群れ騒ぐ。

 ――なんだか気味きびが悪いねえ。お弔いのあった日というに、勘弁しとくれ

よ。

 お栄の胸に不吉な予感が湧き起こり、身柱元ちりけもと(首筋)あたりの肌がぞわぞわと粟立あわだった。

 ――馬琴さん、頼むから成仏じょうぶつしておくんなさいよ。

 お栄の脳裡に、昨夜、北斎が描いた「狐狸図」が思い浮かんだ。

 現世への未練を残して死んだ馬琴の霊魂が、妖狐の白蔵主はくぞうすとなって、北斎をあの世へ迎えに来るのではないか、という思いが頭をかすめたのである。

「オン・キリ・ギャク・ウン・ソワカ……」

 思わずお栄が真言しんごんを唱えたとき、すぐそばを大きい荷足船にたりぶねが波を蹴立てて通り過ぎ、猪牙舟を乱暴に揺さぶった。

 お栄はふとわれに返り、眉をきゅっと持ちあげて、死人の影を振り払うように櫛巻くしまきに結った頭をった。そして、煙管の雁首がんくび舟縁ふなべりにカツンと打ち当て、火皿の灰を水面に落とした。

 それを目にした船頭が、櫓を漕ぐ手を心もちゆるめて世辞せじを言う。

「お客さん、乙粋おついきな長煙管でござんすねえ」

 そこから、ひと呼吸置いて、張りのある若い声がつづいた。

あけ羅宇らうといえば、京伝店きょうでんだな婀娜あだな品。へへっ、図星でございやしょう」

「へえーっ。お兄哥にいさん、よくご存知だね。お眼鏡めがねどおりだよ」

「やっぱり左様で。実はあっしも京伝店の朱ェのを腰にげておりやすんでさ。と言っても、あっしのは長煙管ではなく、短いほうでごぜえやすが……へへっ、お袋の形見でござんす」

 そう語った船頭は、急にしんみりと黙り込み、櫓を握る手にグイッと力をこめた。

 京伝店とは、戯作者の三東さんとう京伝が京橋きょうばし(現銀座一丁目)に開いていた煙管と莨入れの見世である。

 中でも朱羅宇の煙管は「京伝張きょうでんばり」と呼ばれ、市井の人気をかっさらう目玉商品となった。

 調子にのった京伝は、白牡丹はくぼたんという高級白粉おしろい、歯磨きの「水晶粉」、さらには物覚えがよくなるという丸薬「読書丸」や「小児無病丸」などといった怪しげな薬も商い、大繁盛を見せた。間口わずか九尺の見世ながら、月に八、九十両もの売り上げがあったという。

 馬琴は蔦屋重三郎の手代となる前に、この京伝の家で門人として居候していたことがある。

 京伝は質屋の息子せがれであった。絵心があり、当初は絵師になろうとしていたが、天明二年(一七八二)に書いた黄表紙『御存知商売物ごぞんじしょうばいもの』が、当時第一級の文人であった大田南畝おおたなんぽ蜀山人しょくさんじん)に激賞され、これが出世作となる。

 その三年後、黄表紙『江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき』や洒落本しゃれほん令子洞房むすこべや』を蔦屋耕書堂か発市うりだしたところ、これが当たりに当たり、押しも押されもせぬ売れっ子作家となった。

 しかし、その京伝も疾うにこの世を去った。

 若い頃、お栄にちょっとした悪戯いたずら心を起こして、流し目のひとつもくれたり、肩を抱き寄せてくれたりした男たちは、だれもかれもが遠いところへ逝ってしまった。

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