第24話 過去への猪牙舟―其ノ肆

 猪牙舟が御厩河岸おんまやがしノ渡しを過ぎた頃、土手の左岸に土地っ子が「こまんどう」と呼ぶ、朱色の堂宇どううが見えてきた。駒形堂こまがたどうである。

 猪牙舟はさらに竹町たけちょうノ渡しに近づいた。

 お栄は莨をくゆらしながら、ぼんやりと物思いにふけっている。

 何ももの言わぬお栄に、船頭が行く先を確かめるように訊ねる。

「お客さん、おかへ上がりなさるのは、山谷堀の桟橋さんばしでよろしゅうござんすか」

「ああ、そこでいいよ。わたいの住処すみかは聖天町なんだけど、今日は山谷でちょいと寄り道さね」

「へい、合点がってん承知助でいっ」

 船頭は安心したのか、一段と舟足を速めるように櫓音ろおとを威勢よくきしませた。みるみる駒形町を過ぎて、長さ七十六間、幅三間の大橋おおはし(吾妻橋)が迫ってくる。

 頭上に巨大な吾妻橋の橋桁が覆いかぶさってきたとき、ふっと脈絡もなしに、お栄の胸に馬琴の死に顔がよみがえってきた。

 顔に木綿ゆうの打ち覆いを掛け、馬琴は四谷信濃坂の自宅の奥で北枕に横たわっていた。枕元には逆さ屏風が打ち立てられ、胸の上には魔除けの脇差が置かれていた。

 数珠ずずを手にしたお栄がにじり寄り、仏の顔を拝むと、もともと貧相な面立ちが病苦でやつれたのか、頬骨が異様に突き出し、馬琴の仏頂面をさらに際立たせていた。

 白蝋はくろうのように蒼褪あおざめた顔に、苦悶の色がありありとうかがえる。眉間に刻まれた深い縦皺はいかにも不機嫌そうで、いまにも馬琴が死の床からむくりと起き上がりそうなただならぬ気配すら感じた。

 馬琴の顔に白い布をかぶせ戻しながら、お栄はつくづく「お父っつぁんの言うとおりだ」と思った。

 こうも安らかな死に顔とならなかったのは、いまわのきわまで喘息ぜんそくや胸痛に苦しんだせいばかりではない。この世でやり残したこと――まだ書きたいはなしが山ほどあるのに、もはやかねばならないおのが身の因果を嘆き、うらみつつ歿くなったのだ、と。

 お栄は北斎から聞いた話を思い出した。それは、馬琴の日常についてのものであるが、かくのごとき凄まじいものであった。

「あいつが伊勢屋とかいう変哲もない下駄屋のむこになった頃のこと。オイラはその家の二階に権八ごんぱち(居候)を決め込んで、来る日も来る日も瑣吉が書く読本の挿絵ばかり描いてた。あいつの筆は、とにかくけ物みてェにはえェんだ。オイラも負けじと仕事をしたが、とてもかなうもんじゃァねえ。明けのからすがカアといて、寝惚ねぼけけ眼をこすって起きりゃ、あいつはすでに机に向かっているんだ。それから夜四ツ(十時頃)まで一心不乱に筆を走らせて、もうさすがに寝るかと思いきや、夜っぴて小難しい漢字だらけの本を読み耽る。黴臭かびくさい古本やら、長崎渡りの唐土もろこしの本なんぞをむさぼり読んで、眠くなったら、そのまんま机にガバッと突っ伏す毎日だ。そんな無茶がたたったのか、五十の頃には歯がすべて抜け落ち、七十を過ぎた頃には両の目もかすんで、ついには見えなくなっちまった。あいつは並みの人間じゃァねえ。画狂のオイラなんかより、ずんと狂ってる。だが、後世に名を残すのは、間違ェなくあいつみたいな男よ」

 

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