第22話 過去への猪牙舟―其ノ弐

 猪牙ちょき舟は全長三十尺(約九メートル)の小さな川舟である。山谷舟さんやぶねともいう。

 なんでもその昔、押送船おしおくりぶねの船頭であった長吉ちょうきちが考案した「長吉舟」が、いのししの牙に似た舳先へさきを持つことから、転じて「猪牙舟」と呼ばれるようになった――と、お栄はだれかから聞いたことがある。

 舳先のとがった猪牙舟は、舟足ふなあしが速い。あたかも水を噛むかのごとくグイグイ猪突ちょとつする。両岸に船宿が軒を並べる神田川をたちまち下り、柳橋を経て大川おおかわ(隅田川)の流れへと進み出た。

 夏には涼み客でにぎわう大川も、さすがにこの季節になると船影は少ない。時折、米俵などを積んだ高瀬船や五大力ごだいりき、房総などからの鮮魚を運ぶ押送船が白浪を蹴立けたてて通り過ぎてゆくだけであった。 

 船頭のとしは、二十はたちをちょいと過ぎたあたりであろうか。ねじり鉢巻きをきりりと締め、紺の印半纏しるしばんてんを風になびかせ、巧みな櫓捌ろさばきで大川をさかのぼる。

 お栄は舟梁ふなばり肩肘かたひじをついて莨をくゆらせ、物心ついた時分から少しも変わらぬ川溿かわばたの景色をに映す。左手前方に御公儀おかみの米蔵である浅草御蔵おくらが見えてきた。さらにその先に姿を見せるのは、首尾しゅびの松だ。

 いつもなら猪牙舟の疾走に心をはずませるお栄だが、野辺送りがあった今日ぱかりは水底みなぞこのような昏いよどみに心が沈んでいた。冷たい川風がびんのほつれ毛を頬に叩きつける。

「このところ、めっきり冷えこんできやしたねえ」

 若い船頭が櫓をぎながら、遠慮がちに言う。

「そうだねえ」

 と、短く相槌あいづちを打ったお栄は、大名屋敷が列なる右岸に視線を移した。

 やがて大きなしいの木がこんもりと茂った一画が目に入った。そこは「椎の木屋敷」と呼ばれる肥前平戸ひらど松浦まつら家の下屋敷だ。

 そして、その屋敷の裏手には御竹蔵おたけぐらの広大な敷地をはさみ、お栄が生まれ育った本所ほんじょの家並みがひろがっている。

 ――われながら、あのお父っつぁんとよくぞここまで来たもんだ。死んだおっ母さんの苦労が骨身にみてわかるよ。

 母親のおことの人のさそうな顔を思い出し、お栄は軽い吐息とともに莨のけむを「ふう」と吐き出した。

 思えば、この大川りの本所、深川、浅草あたりの町々を父親の北斎とともに、幾度うろうろしたことか。

 どの界隈でも引っ越すこと自体はいとも簡単であった。空家有りますの札が貼られた長屋の木戸きどを見つけるのに、半刻(約一時間)もかかりはしない。

 とは言うものの、真夏の炎天下や真冬の寒風にさらされて引っ越すのは辛いものがあった。幾度、北斎がく大八車の尻を押しながら、こんな季節に家移やうつりなんて、もうだ、金輪際ご免だと心の中で思ったものか。

 ――だけど、来年、九十になる親父どのに、まだ引っ越す元気は残っているだろうか。できれば、あと何度かは我儘わがままを言わせてやりたい気もするけどねえ。

 お栄は心の中でそうつぶやき、大川の上にひろがる空を見あげた。 

 

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