第21話 過去への猪牙舟―其ノ壱

 十一月八日、馬琴の葬儀は予定どおり、武家式で執り行われた。

 この日の未明、お栄は浅草聖天町しょうでんまちの長屋を出て、四谷信濃坂の滝沢家に出向いた。

 野辺のべ送りがあったのは、五ツ(午前八時頃)であったろうか。

 先頭に高張提灯たかはりちょうちん二基を打ち立て、槍、長刀を携えた供侍ともざむらいや、挟箱はさみばこを担いだ中間ちゅうげん姿の人足にんそくらを従え、馬琴の棺が数珠ずずを手にしたお栄の前を遠ざかる。

 滝沢家累代るいだい菩提寺ぼだいじである小石川の深光寺じんこうじをめざして、ゆるゆるとく。その葬列は、武士としての矜持きょうじを抱いて生きた馬琴にふさわしく、厳めしくも荘重なものであった。

 馬琴の棺を見送ったあと、お栄は「さて」とばかりに帰路についた。

 だが、なぜか足がさきへ進まない。

 浅草から四谷までは、片道およそ二里(約八キロ)であるが、朝の急ぎ足がこたえたのか、どうにも足が重いのだ。

「どうした、どうした。ここのところ、絵ばかり描いていたから、足がえてきちまったのかい。韋駄天のお栄とわれたわたいが、こんなんじゃざまァないね」

 お栄は五十路いそじ目前という自分の年齢を思い知らされ、胸のうちで自嘲じちょうした。

それでも、重い足を引きずるようにして、九ツ(正午)頃には、ようやく神田川にかる浅草橋のたもとへたどり着いた。

 お栄の目の前に見馴れた景色がひろがる。やれやれ帰ってきたよと、安堵の吐息を洩らした瞬間、ピリリと鋭い痛みが足元にはしった。

 見ると、芳町よしちょう(女物の下駄)の鼻緒で指の股がこすれ、はだがめくれている。

「ちっ」

 痛みに眉根を寄せたお栄が、ふと橋の下に目を落とすと、船着場に一艘の猪牙ちょき舟がもやってある。吉原通いのために、山谷堀などへ向かう客待ちの舟だ。

 若い船頭がとも胡坐あぐらを組んでたばこをくゆらしている。

 お栄は声をかけた。

「ちょいと、お兄哥にいさん。乗せておくれでないかい」

「へいっ、よござんすよ」

 ――やれやれ、地獄で仏とはこのことだよ。

 まさに渡りに舟であった。

 お栄はふらつく足で猪牙舟に乗り込んだが、案の定、尻餅しりもちをついた。舟が大きく揺れ、水面が波立った。

「ドジでご免なさいよ」

 お栄がおのれの醜態に苦笑いして謝ると、船頭が心配顔で言う。

大丈夫でえじょうぶですかい。ちょいと疲れていなさるようで……。よかったら、一服つけておくんなさい」

 船頭は如才じょさいなくお栄に火縄箱ひなわばこをすすめると、舫い綱をき、手にした水棹みさおでゆっくりと舟を押し出した。

 火縄箱とは、猪牙舟などで莨をむために、あらかじめ火をつけた火縄をしまっておく箱のことである。 

 ちなみに、江戸後期のこの頃、「莨を喫まぬ女と精進する出家しゅっけは稀なり」というほど、喫煙は男女を問わず庶民の生活に浸透していた。莨は万病に効き、長生きをもたらすと信じられていた時代であった。

 お栄は気遣いを示してくれた船頭に頬笑ほほえんで、

「あい、それは。足がおだぶつ仏になりかけていたもんでしてね。ひと息入れさせてらいますよ」

 と、火縄箱を手元に引き寄せ、長煙管の火皿に刻莨きざみを詰めた。

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