第20話 阿檀地の呪文―其ノ陸

 日本堤は浅草今戸から西の三ノ輪へとまっすぐつづく。

 堤の左右には、葦簀よしず張りの煮売屋、金鍔屋、団子屋といった粗末な床見世が軒を列ねる。

 そうした葦簀張りの掛茶屋の陰から、年増女の吃驚びっくりしたような声があがる。

「あれまっ、あんなじいさまが吉原へ向かうよ。まさか、あのとしくるわ遊びってんじゃないだろうね」

 手拭てぬぐいを頬被ほおかむりにした貧相な亭主が、人差し指を口に当てた。

「しィーっ」

「ちっ、何がしィーってんだ」

「オメエ、頓狂とんきょうな声を立てるんじゃねェよ。知らねェのかい。あれが天下の有名な絵師、北斎大先生よ」

 お多福顔のかかァが、怪訝けげんそうに訊き返す。

「えっ、嘘言うんじゃないよ。それって真実まことかえ。だって、あのよれよれの半纏はんてんを見てご覧な。どこから見ても素寒貧。唯一ご立派なのは、あのでかい福耳だけだよ」

「なこと、言うんじゃねェよ。へへっ、実はあっしらも、あの先生には滅法界めっぽうかい、お世話になったことがあるんだぜ」

さんの南瓜かぼちゃ頭、二日酔いでまだ寝惚ねぼけてんだね。悪いけど、あたしゃ、あんなこもっかぶり同然の爺さまにお世話にあずかったおぼえはないよ」

「でも、ねェんだ。ほら、オメエと一緒になっ頃、夜毎、よく拝ませてもらったじゃあねェか。あれをいたお方ってことさ」

「へーっ、あの枕絵の……らしいねえ。うふふっ」

 思わず淫らな笑みを浮かべた女房は、亭主の小脇をひじでつついた。

 北斎のうしろ姿を見送りつつ、亭主が独り言のようにつぶやく。

襤褸ぼろは着てても、偉ェもんなんだぜ。なにせ、江戸でいちばんの絵師なんだ。先生と比べりゃ、御用絵師の狩野かのうなんとやらなんて、へんっ、ありきたりの唐変木よ。しかも宵越しの銭は持たねェときてる。あっしら江戸っ子のかがみでえ」

「へえーっ。そうなのかい。そりゃ、たいしたもんだ。でも、どこへ行くんだろうね」

「たぶん、吉原大門おおもん前の衣紋坂えもんざかにある釣瓶蕎麦だろうよ。あすこの蕎麦は、このお江戸で一等うめェんだ。先生は蕎麦にゃあ、目がねェんだとよ」

 刹那、その声を掻き消すように、堤の下を流れる山谷堀から風が吹き上げ、葦簀をバタバタとはためかせた。吉原昼見世ひるみせ目当ての飄客ひょうかくを乗せた四つ手が三挺、駕籠かごきに「えっさえっさ」と掛声なきを打たせて通りすぎた。

 だが、そうした躁音ざわめきが、ひたすら呪文を唱える北斎の耳に入ることはなかった。日本堤の土手の下に、吉原の目印となる見返り柳が見えてきた。柳の枝が、風に身悶みもだえするようにうごめいている。

 ちょうどその頃――。

 四谷信濃坂の馬琴の葬儀に列する一人の女の姿があった。

 細縞の普段着の上に、地味な縮緬ちりめんの半纏を引っかけ、黒い帯に朱羅宇しゅらうの長煙管を差し込んでいる。

 お栄であった。




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