第19話 阿檀地の呪文―其ノ伍

「先生、どこぞへお出掛けですかえ」

 大根を洗う手を休めて、畳職人茂平もへいの女房が声をかけてきた。

 あの女の名は、たしかお里と言ったか。時折。煮〆にしめなどの菜を分けてくれたりする世話好きな年増女だが、お節介が過ぎてちと五月蠅うるさい。

 お里の甲高い声に、北斎は「ちょっくら蕎麦だ」と言い残し、芝居小屋の建ち並ぶ猿若町さるわかちょうとは逆の浅草山川町やまかわちょうに足のほうへと足を向けた。

 山川町は狸長屋の裏手にある町で、俗に砂利場ざりばわれ、公許の吉原遊廓ゆうかくは八丁先の西にある。そのため、この町の路地裏の長屋は、鑓手婆やりてばあ女衒ぜげん陰間かげま幇間たいこ、牛太郎(妓夫ぎゆう)などの輩が巣食う、掃溜はきだめの様相を呈していた。

 一棟の棟割長屋の前を通ったとき、強烈な異臭が鼻をついた。どこぞの空きだな首縊くびくくりの死体でも転がっていそうな腐敗臭である。

 どぶこうかなとの入り混じった長屋独特の匂いには慣れっこの北斎も、さすがに眉をひそめて吐き捨てるようにつぶやいた。

「ったく、蛇骨じゃこつ長屋よりひでェや」

 蛇骨長屋は、ここからほど近い浅草広小路に面した田原町たわらまち三丁目にある。伝法院裏手に一丁ほども長々とつづく裏店で、これまた貧民窟ひんみんくつそのもの。みすぼらしさを絵に描いたような長屋であった。

 薄暗く、湿っぽい山川町の路地を抜けると、船宿や待合茶屋まちあいぢゃやが軒をつらねる山谷さんや堀界隈に突き当たる。

 北斎はそこから日本堤の土手に上がった。

 日本堤の上がりはなに、土手どて道哲どうてつこと浄土宗西方寺さいほうじが見える。当時、この山谷の西方寺、それに三ノ輪みのわ浄閑寺じょうかんじの二寺が、投込み寺として吉原遊女の死体を引き受けていた。

 ちなみに浄閑寺の過去帳によれば、死んで投込まれた遊女の平均年齢は二十三歳にも満たず、墓地には二万数千人の骨が眠っているという。

 季節柄、切り株だらけの吉原田圃たんぼを眼下に見下ろしながら、北斎は冬ざれの日本堤を西の吉原へと歩んだ。空の高みからとんびの鳴き声が落ちてきた。

 目当ては、吉原大門おおもん前に白暖簾しろのれんをかかげる「釣瓶つるべ蕎麦」である。

 この頃の北斎について、戯作者柳亭種彦りゅうていたねひこの門人笠亭仙果りゅうていせんかは、その書簡の中で「北斎も九十歳に近く、確か八十七、八のはずだ。ところが、眼鏡をかけずに曲描きや細かな板下絵が描け、背もかがんでいない。春ごろには雨降りに足駄あしだ(雨天用の高下駄)を履き、西両国から日本橋まで往き来しても、何ともない達者であった」と描写している。

 仙果の驚きようが目に浮かぶではないか。

 阿檀地あたんだいの呪文が、北斎の口からぶつぶつと洩れはじめた。

 北斎は世間の交わりというものが苦手であった。この男にとって、道でバッタリ顔見知りの者と出くわし、長々と時候の挨拶や世間話をされることは苦痛以外の何ものでもない。

 そうした難儀を振り払うためにも、北斎はこの呪文を唱えながら歩く。つまり、「陀羅尼を無心に唱えていて、何も耳に入らぬ。目に入らぬ」といったていを装うのである。

 老絵師は歩く。左手に不二権現の浅草富士。現代いまでいうところの富士塚が見えてきた。その少し先に垣間かいま見えるのは、袖摺そですり稲荷の赤い鳥居。北斎は目の前の風景を心の画紙に正確に写し取りながら、天秤棒を肩にゆっくり吉原へと歩を進めた。

 

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