第18話 阿檀地の呪文―其ノ肆

「にしても、藤兵衛のやつ、オイラが描いた達磨絵と瓜二つ。もっとも品性がいささか下品げぼんではあるが……」

 板元はんもと・山口屋藤兵衛の悪相つらを思い出し、北斎は苦笑した。

 直後、赤茶けた畳の上に下敷きを広げ、美濃紙の画紙にいとも無造作に筆を走らせた。大鎧をまとった武者の姿が次々に紙の上に現れた。太刀が鞘鳴さやなり、草摺くさずりの音がする。槍が唸り、弓箭ゆみやが飛ぶ。

 浅草寺弁天山の鐘が鳴った。九ツ(正午)の鐘だ。

 つと北斎は筆をおいた。きっちり二刻(四時間)で約束どおり、二十枚の武者絵と口絵を墨痕鮮やかに描き終えたのである。神技、神速というほかない超絶の名人芸であった。

 ――やれやれ。腹がへったわい。

 思えば朝から何も食べていないのだ。蕎麦でも手繰たぐりに行くかと、やおら腰をあげかけたとき、山口屋の使いの若い者が「ご免くだせえ」と、やってきた。

 たしか、五郎吉とかいう名の手代だ。やたら腰は低いが、名前が「五郎ゴロつき」だけあって、ひと癖ありそうな表情を馬面うまづらに浮かべている。

 のそっと起ちあがった北斎が、無言でお店者たなものの前に画稿の束を突き出した。

 北斎の上背は六尺(約一八〇センチ)ほどもあり、この当時としては、頭ひとつ脱け出た身の丈である。しかも、矍鑠かくしゃくとした五体からは、老いたりとはいえ尋常ならぬ気魄きはくにじみ出ていた。

 遊治郎ゆうやろう(遊び人)の長吉は、この絵師を苦手としていた。北斎の目つきが死んだ小言幸兵衛こごとゆきべえの親父と酷似しているのだ。しかも、図体がでかくて威圧感がある。

 ために、一刻も早くこの場からずらかりたい一心で、

「こりゃ、どうも」と頭をぺこぺこ下げながら画稿を受け取るや、唐草柄の風呂敷に手早くくるみ、土間口から逃げるように退散した。

 その手代のうしろ姿に一瞥いちべつをくれて、視線を落とすと、

「ん?」

 上がり框の端に竹皮の包みがある。さっきの手代が置いていった藤兵衛からの差し入れであろう。

 包みを開いてみれば、まん丸い大福が五つ。北斎の左右の手が同時に動いた。両の手で大福をつまみあげ、次々に口にほうり込み、すべてをはらわたの中へ落とし込むのにさしたる時間はかからなかった。

 お栄と違って、北斎は酒も莨もやらないかわり、甘いものには目がない。とりわけ大福と饅頭まんじゅうは好物で、そのほか鹿子かのこ餅、鶯餅、羽二重はぶたえ餅、金鍔きんつば、羊羹、果ては一文駄菓子まで、なんでもござれの甘党である。

 大福を腹におさめた北斎は、麻裏の草履を引っかけ、腰高の油障子をうしろ手に閉めて、やおら外に出た。手には杖がわりの天秤てんびん棒。

 油障子のガタガタと開く音に、長屋の井戸端にしゃがんで、せわしなく手や口を動かしていた女たちが、一斉に北斎に視線を走らせてきた。

 米をぎ、野菜を洗い、洗濯をする女たちは、主に大工や左官の女房であるが、それらにまじって子おろし専門の隠婆おんば夜鷹よたかなどの顔もある。

 それらの女が、大家や亭主の悪口あくたをピタリとやめ、粗末な身形なりの北斎を上から下までジロジロ見た。「有名な絵師だってェのに、あの恰好はどういうわけ」といわんばかりの目つきである。

 




 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る