第17話 阿檀地の呪文―其ノ参

 北斎は、かつて達磨先生と呼ばれたことがある。

 それは文化十四年(一八一七)、尾張名古屋の西掛所にしかけしょ(現本願寺名古屋別院)でのことであった。

 この寺院の境内で、北斎はかつて江戸音羽おとわの護国寺境内で描いたものと同じ大達磨絵を描いてみせた。

 百二十畳敷(縦約十八メートル、横十一メートル)の大きさの紙に、大達磨の半身像を描くという興行イベントを主催したのは、名古屋の板元・永楽屋えいらくや二代目店主の東四郎とうしろうである。

 東四郎はこれに先立ち、北斎画法の教本『北斎漫画』を出板していた。大達磨絵の興行は、その『北斎漫画』の宣伝ひろめを目的としていた。

 善男善女でごった返す尾張名古屋の西掛所。その広大な境内の中央で、北斎は百二十畳敷の継ぎ紙の上で、そのときまさに「格闘」しようとしていた。

 袴の股立ももだちを高くからげた襷掛たすきがけの姿で、北斎は参詣の群衆ぐんじゅの前に立った。

 その肩に担ぐのは、通常の竹箒の三倍はありそうに見える大筆である。それは、わらを束ねた特別誂えのもので、それとは別に蕎麦殻そぱがらの大筆も墨汁ぼくじゅうのたっぷり入った酒樽に突っ込まれていた。

 北斎は大筆の穂に墨汁を含ませるや、「阿檀地アタンダイ!」と、心の迷いを吹き消すように陀羅尼だらにの呪文を絶叫し、厚紙の継ぎ紙の上を心のままに疾駆した。大筆の太い線が紙の上を躍る、走る、駆けめぐる。

 それが終わると、蕎麦殻の大筆に持ち換えて、真っ黒なしずくを継ぎ紙の上にこぼしながら、飛ぶように駆けずりまわった。

 このとき、北斎は蕎麦殻の筆で大達磨の顔面にひげを描き、仕上げにかかっていたのだが、取り巻く群衆は、その絵があまりに巨大すぎて全体を把握できない。何を描いているのか、どの部分をどう描いているのか、さっぱり見当もつかないのである。

 しかし、その百二十畳敷の巨大な絵が、本堂大伽藍がらんの上に滑車で引きあげられ、風にはためいた瞬間、境内には「おおっ」と驚きの声が響き、やんやの喝采が渦巻いた。

 黒々と群がった見物客の前に姿を現した、その絵が、眼光鋭い大達磨の図であったことは言うまでもない。

 以来、北斎の評判は江戸だけでなく、名古屋でも絶大なものとなり、世人みな北斎のことを「達磨先生」、略して「だるせん」とも呼んだ。

 無論、永楽屋東四郎の狙いは的中し、『北斎漫画』は売れに売れた。

 それが、いまから三十年も前のことである――。

 瞬時、回想にひたっていた北斎の耳に、濁声だみごえが飛び込んできた。

「北斎先生、今日は逃がしませんぜ。ここでうたが百年目だ。この上がり框に腰をどんと据えて、たとえお天道さまが落ちても待っていやすから、さあさ、百人一首の絵を存分に仕上げておくんなせえよ」

 山口屋藤兵衛の苛立ったような声に、北斎が顔をしかめて言う。

「あと二刻ほどで終わる。その時分じぶんに手代を寄こしな」

本当まことですかい」

「本当だ。絶対ぜってえだ。銅鑼どらはついても、嘘はつかねえ。しかと、きっちりと約束する」

「へえ、そこまでおっしゃるなら、よござんすよ」

 絵師から言質げんちを取った藤兵衛は、

「先生のお宅では、白湯さゆ一杯いっぺえも出ませんようで」

 と、捨て科白ぜりふを吐き、唐桟の着物の裾についたちりを手で払うや、達磨のような仏頂面ぶっちょうづらを引っさげて帰っていった。

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