第16話 阿檀地の呪文―其ノ弐
北斎は
そのときである。
長屋の腰高障子の外で「ごめんくだせえよ」と、野太い
北斎が顔をしかめる。
案の定、
藤兵衛が
「おやっ、藤兵衛さんじゃねえか。こんなに朝早く、一体、どうしたってんだい」
藤兵衛は
「先生、どうしたってのは、こっちの
「なんで、柳島へ行った昨日のことを知ってるんでえ」
「へんっ、話をはぐらかさないでくだせえよ。そんなことより、例の百人一首でござんす。
藤兵衛の言う百人一首とは、武者絵の絵本『続英雄百人一首』のことである。これは、五年前に同じ山口屋から板行され大当たりをとった『英雄百人一首』の後編で、百人の武将の和歌を採録した絵本となっている。
絵本の要となる挿絵は、北斎を筆頭に、歌川
ところが、
明らかにまずい状況であった。
板元の藤兵衛は、苛立った。焦りに焦った。このままでは、年明け二日の
なのに、今年もあと
きりきりと気を
そこで、店主みずから中年太りの太鼓腹を揺らして、この裏長屋までわざわざ押しかけてきたというわけだ。
「あっしも江戸っ子だ。大先生を前に、くどくは申しやせん。が、ケチな野郎のあっしにも意地ってものがあるんでさあ。今日という今日は画稿全部、きっちり耳を揃えて頂戴するまで、ここを
その藤兵衛のむっつり黙り込んだ達磨顔を見て、北斎の脳裡に三十年前の記憶が鮮やかによみがえってきた。
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