第16話 阿檀地の呪文―其ノ弐

 北斎は阿檀地あたんだいの呪文を唱えながら、絵筆を手にした。

 そのときである。

 長屋の腰高障子の外で「ごめんくだせえよ」と、野太い濁声だみごえがして、ガラリと戸が開いた。

 北斎が顔をしかめる。

 案の定、馬喰ばくろ町二丁目の書肆ふみやの店主、山口屋藤兵衛とうべえであった。だれが付けたか、達磨だるまの藤兵衛という渾名あだなどおりの風貌で、でっぷりと肥え太っている。

 藤兵衛が三千さんぜん世界をめつけるような大目玉をギョロリとき、北斎を憎々しげに見る。

 禿頭とくとうをつるりと撫でて、北斎がすっとぼけた。

「おやっ、藤兵衛さんじゃねえか。こんなに朝早く、一体、どうしたってんだい」

 藤兵衛は唐桟とうざんの着物の裾をまくりあげて、上がりかまちに腰かけたかと思うや、一気にまくしたてた。

「先生、どうしたってのは、こっちの科白せりふでござんすよ。柳島の妙見さまに行く暇があるんなら、サッサと描いておくんなさいよ。でないと、来年正月の発市うりだしに間に合いやせんぜ」

「なんで、柳島へ行った昨日のことを知ってるんでえ」

「へんっ、話をはぐらかさないでくだせえよ。そんなことより、例の百人一首でござんす。けつに火がついてるのは、この藤兵衛だけじゃござんせん。彫師も摺師すりしも、おまけに本の仕立屋も長く伸びきった首の上に、への字むっつり顔をのせて、じっと我慢の子と健気けなげにも待っていやすんでさあ」

 藤兵衛の言う百人一首とは、武者絵の絵本『続英雄百人一首』のことである。これは、五年前に同じ山口屋から板行され大当たりをとった『英雄百人一首』の後編で、百人の武将の和歌を採録した絵本となっている。

 絵本の要となる挿絵は、北斎を筆頭に、歌川国芳くによし豊国とよくにら名だたる浮世絵師の筆によるものであるが、すでに北斎以外の絵師らは、各々おのれの仕事を終えていた。

 ところが、肝心要かんじんかなめの北斎の武者絵二十枚が、約束の期限が過ぎても仕上がってこない。しかも、大物の北斎には巻頭の口絵くちえまでも任せているのだ。

 明らかにまずい状況であった。

 板元の藤兵衛は、苛立った。焦りに焦った。このままでは、年明け二日の発市うりだしに間に合わない。この手の本はどんなに彫師や摺師を急がせても、出板しゅっぱんまでに三月みつきはかかる。

 なのに、今年もあと二月ふたつき足らずで暮れようとしているのだ。

 きりきりと気をんだ末、ついに藤兵衛は意を決した。北斎を「畏れながら」とせっつかし、今日こそは画稿を受け取らねばならない。もはや我慢の限界であった。

 そこで、店主みずから中年太りの太鼓腹を揺らして、この裏長屋までわざわざ押しかけてきたというわけだ。

「あっしも江戸っ子だ。大先生を前に、くどくは申しやせん。が、ケチな野郎のあっしにも意地ってものがあるんでさあ。今日という今日は画稿全部、きっちり耳を揃えて頂戴するまで、ここを梃子てこでも動きやせんぜ」

 その藤兵衛のむっつり黙り込んだ達磨顔を見て、北斎の脳裡に三十年前の記憶が鮮やかによみがえってきた。

 

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