第15話 阿檀地の呪文―其ノ壱
翌朝、裏長屋の
「アゴのやつ、朝っぱらからどこへ行きやがったのか」
アゴとはお栄のことである。
お栄は、北斎の門人・
もっとも、お栄とて負けてはいない。アゴと呼ばれるたびに、人前でも父親の北斎を「鉄蔵」と呼び捨てにした。
炬燵から出た北斎は、日蓮像の前で正座した。と言っても、その像はごく小さい。柱の上に蜜柑箱を釘づけにし、その中に
北斎の口から
「
法華経の信者である北斎は、朝な夕なに妙法蓮華経
これを唱えれば、普賢菩薩がこの世の苦悩や惑乱から身を守ってくれる――と、北斎は信じていた。
「アゴがいねえと、
北斎は呪文を唱えたあと、片眉を持ちあげて、苦り顔でぼやいた。
いつもの朝なら、お栄がちょいと横丁の
しかし、自分で荷売屋まで行くのは面倒だ。
「ええいっ、仕方がねえ。仕事をやっつけるか」
朝飯を諦めて、北斎は絵筆を口にくわえた。
そのとき、北斎の視線は部屋の隅の暗がりに
散乱したがらくたを足で払いのけ、やおら土瓶の
北斎は口から絵筆をはなし、その水を
「ここへ来て、半年でこの散らばりようだ。また引っ越すか」
土瓶を手にしたまま、北斎は周りを見渡して嘆息した。
家の中はさながら
そこいら中に、食いものを包んでいた竹の皮、餅が入っていた
無理もない。北斎もお栄も、掃除や片付けはしたことがなく、そんなことをするくらいなら、いっそほかの長屋へ引っ越したほうがましだと思っている。
部屋の中がどうしようもなく乱雑を極めた状態になれば、いよいよ潮時だ。
しかし、いまは引っ越しどころではない。この日、このとき、北斎にはのっぴきならぬ事情を抱え、頭の中はいつも以上に
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