第15話 阿檀地の呪文―其ノ壱

 翌朝、裏長屋の溝板どぶいた通りに薄い陽が射し、しじみ売りの声が通り過ぎた。

「アゴのやつ、朝っぱらからどこへ行きやがったのか」

 炬燵こたつの中で目覚めた北斎は、お栄の姿がないことに気づき、苛立いらだたしげに独りごちた。

 アゴとはお栄のことである。

 お栄は、北斎の門人・露木為一つゆきいいつが「あご出でて、すこぶる異相なりし」と評したように、特長のある容貌きりょうをしている。ために、北斎はお栄にアゴという渾名あだなをつけていた。

 もっとも、お栄とて負けてはいない。アゴと呼ばれるたびに、人前でも父親の北斎を「鉄蔵」と呼び捨てにした。

 炬燵から出た北斎は、日蓮像の前で正座した。と言っても、その像はごく小さい。柱の上に蜜柑箱を釘づけにし、その中にまつっているのである。

 北斎の口から阿檀地あたんだいの呪文が洩れ出る。

阿檀地アタンダイ檀陀婆地タンダバーチ檀陀婆帝タンダバーテ檀陀鳩賖隷タンダクシャレイ檀陀修陀隷タンダスダレイ……」

 法華経の信者である北斎は、朝な夕なに妙法蓮華経普賢ふげん菩薩勧発品かんばつぽん第二十八にある陀羅尼だらにの呪文を唱えることを習慣ならいとしていた。

 これを唱えれば、普賢菩薩がこの世の苦悩や惑乱から身を守ってくれる――と、北斎は信じていた。

「アゴがいねえと、慈姑くわいひとつ口にできやしねえ」

 北斎は呪文を唱えたあと、片眉を持ちあげて、苦り顔でぼやいた。

 いつもの朝なら、お栄がちょいと横丁の煮売屋にうりやまで下駄をつっかけてひとっ走りし、北斎の好物である慈姑の含め煮や、煮豆、鰯の目刺などを買い求め、それをさいにして冷や飯を掻きこむという寸法となる。

 しかし、自分で荷売屋まで行くのは面倒だ。

「ええいっ、仕方がねえ。仕事をやっつけるか」

 朝飯を諦めて、北斎は絵筆を口にくわえた。

 そのとき、北斎の視線は部屋の隅の暗がりにたこが這っているのに気づいた。まさかと寝惚ねぼまなこをこすってみると、当然のことながら蛸であるはずがない。

 つるの取れた土瓶どびんが、足の踏み場もなく取り散らかった塵芥ごみの中から頭と注ぎ口をのぞかせているのだ。

 散乱したがらくたを足で払いのけ、やおら土瓶のふたをはずしてみると、その底にひと口か、ふた口程度の水が残っている。

 北斎は口から絵筆をはなし、その水をのどに流し込んだ。

「ここへ来て、半年でこの散らばりようだ。また引っ越すか」

 土瓶を手にしたまま、北斎は周りを見渡して嘆息した。

 家の中はさながら塵芥溜ごみため、いまでいう汚部屋である。

 そこいら中に、食いものを包んでいた竹の皮、餅が入っていた竹籠たけかご反故ほご紙、板下はんした絵、表紙の破れた読本、ぶんまわし(コンパス)や定規、質札しちふだ、ぼろ足袋たび、割れ皿やらが畳の上に散乱している。

 無理もない。北斎もお栄も、掃除や片付けはしたことがなく、そんなことをするくらいなら、いっそほかの長屋へ引っ越したほうがだと思っている。

 部屋の中がどうしようもなく乱雑を極めた状態になれば、いよいよ潮時だ。大八だいはち車の荷台にぼろ布団を積み、なけなしの家財や絵道具をひっくるめた風呂敷包みを五つ、六つせれば、それにてお仕舞。「さて」とばかりに、いとも飄々ひょうひょうと家移りしてゆくのである。

 しかし、いまは引っ越しどころではない。この日、このとき、北斎にはのっぴきならぬ事情を抱え、頭の中はいつも以上にせわしなかった。

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