第14話 北斎の回想―其ノ陸
お栄の心配に対して、北斎が冗談で洒落のめす。
「オイラが簡単にくたばるもんか。
「おやおや、やっぱり今日も今日とて妙見堂
長煙管を口にくわえたまま、お栄が唇を歪めて言う。
「それに、ずっと昔、親父どのは妙見さまに願掛け参りして、満願の日に雷に打たれたというじゃないか。あのときでさえ、命を落とさなかったんだから、たいしたもんだよ」
「どころか、
北斎は若い頃から
無論、北斎が足繁く通う柳島妙見堂は日蓮宗の寺院である。この寺は古くから
北斎という彼の画号も北斗妙見、あるいは北辰妙見と呼ばれる妙見菩薩に由来する。すなわち北斎号は、北斗斎、北辰斎を略したものである。
「お父っつぁんは簡単にくたばるような玉じゃないけど、ま、せいぜい気をつけておくんな。極め付きの肉筆画でたんまり稼いでもらわないとね」
「わかってらァな。オイラはいまや肉筆画で最後の勝負をしているんだ。この世で一枚こっきりの肉筆画は、筆の冴え、筆の走りだけが命なんだ。木版画と違って
「わたいは、木版画でも、ベロ藍を使って一世を
「ふんっ、あんなのは子供だましの域よ。
「いよっ、その意気だよ。お父っつぁん。昔の手柄に
「バッカ野郎。変な
「へっ」
思わず首をすっこめたお栄は、長火鉢の縁で煙管の灰をコツンと
そのお栄を横目で見て、北斎は再び絵筆を手にした。
たちまち画紙の上に、寿老人、
それらの絵を見て、お栄がしたり顔で苦笑する。
「ふふっ。みんな不老不死の仙人じゃないか。妙見さまに画業達成と長寿を祈り、道教の仙人のような不老長寿をのぞむってわけかい。画道の深奥を極めるまでは、なんとしても死にたくないわけだ。欲が
外でチリンという音がした。
屋台に風鈴をぶら下げて売り歩く
「お父っつぁん、
「………」
返事がない。
お栄は長煙管の
すると、すでに北斎は絵筆を握ったままの恰好で、畳にうつぶせて
「おやまあ、今日は妙見さまへ参って、よっぽど歩き疲れたんだね。わたいも寝ることにしよう」
独りごちたお栄は、貧乏徳利を傾け、底に残った酒を
風邪を引いているのか、隣に住む
お栄は煎餅布団の中で、明朝は四谷信濃坂に出向こうと思い決めた。父北斎の名代として馬琴の葬儀に出るためである。
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