第14話 北斎の回想―其ノ陸

 お栄の心配に対して、北斎が冗談で洒落のめす。

「オイラが簡単にくたばるもんか。柳島やなぎしま(墨田区業平なりひら)の妙見さまがついてくれていなさる。おまけに、この齢になっちまえば、なんだか冥土へゆくのも億劫おっくうになってきたぜ」

「おやおや、やっぱり今日も今日とて妙見堂もうでだったのかえ。たしかに、齢を取りすぎると、十万億土彼方かなたの彼岸は遠いやね。たどり着く前に、足がお釈迦しゃかになるってもんだ」

 長煙管を口にくわえたまま、お栄が唇を歪めて言う。

「それに、ずっと昔、親父どのは妙見さまに願掛け参りして、満願の日に雷に打たれたというじゃないか。あのときでさえ、命を落とさなかったんだから、たいしたもんだよ」

「どころか、雷公らいこうに遭って以来、めきめきと運が開けてきたのよ。その時代の画号が、へへんっ、雷斗らいとってんだ」

 北斎は若い頃から日蓮宗にちれんしゅう(法華宗)に帰依きえしていた。

 無論、北斎が足繁く通う柳島妙見堂は日蓮宗の寺院である。この寺は古くから北辰ほくしん(北極星)を神格化した妙見菩薩を祀り、災難厄除、長寿といった現世利益りやくをもたらすと信じられていた。

 北斎という彼の画号も北斗妙見、あるいは北辰妙見と呼ばれる妙見菩薩に由来する。すなわち北斎号は、北斗斎、北辰斎を略したものである。

「お父っつぁんは簡単にくたばるような玉じゃないけど、ま、せいぜい気をつけておくんな。極め付きの肉筆画でたんまり稼いでもらわないとね」

「わかってらァな。オイラはいまや肉筆画で最後の勝負をしているんだ。この世で一枚こっきりの肉筆画は、筆の冴え、筆の走りだけが命なんだ。木版画と違って摺師すりし彫師ほりしもいらねえ。いわば芸の極みよ。画道を極め、肉筆画の深奥を極めるまでは、卵塔場らんとうば(墓地)で横になる暇なんて、オイラにゃあねェんだ」

「わたいは、木版画でも、ベロ藍を使って一世を風靡ふうびした冨嶽三十六景はいいと思うけどねえ。そん中でも神奈川沖浪裏かながわおきなみうらなんか、江戸っ子を魂消たまげさせたじゃないか」

「ふんっ、あんなのは子供だましの域よ。手遊てすび程度の仕事よ。板元あっての木版画なんぞ、売れてもつまらねえ。所詮、障子の穴ふさぎよ。あんなの芸の極みとは言えねえんだ。これからは肉筆画だ。この世の森羅万象しんらばんしょう、妖怪変化、百鬼夜行ひゃっきやぎょうの図に至るまで描いて、描いて、描き尽くして、本物まことの絵をものにしてみせるんだ」

「いよっ、その意気だよ。お父っつぁん。昔の手柄に胡坐あぐらをかかぬとは、さすが天下の北斎。画狂老人卍の号は伊達じゃないね。年寄りの冷や水としても見上げたもんだ」

「バッカ野郎。変な茶利ちゃりを入れるんじゃねえ」

「へっ」

 思わず首をすっこめたお栄は、長火鉢の縁で煙管の灰をコツンとたたき落とした。

 そのお栄を横目で見て、北斎は再び絵筆を手にした。

 たちまち画紙の上に、寿老人、傘風子さんぷうし蝦蟇がま仙人、飛鉢ひはつ仙人、鉄拐てっかい上利剣じょうりけんなど、道教世界の仙人の姿が次々に現れた。

 それらの絵を見て、お栄がしたり顔で苦笑する。

「ふふっ。みんな不老不死の仙人じゃないか。妙見さまに画業達成と長寿を祈り、道教の仙人のような不老長寿をのぞむってわけかい。画道の深奥を極めるまでは、なんとしても死にたくないわけだ。欲が深谷ふかや根深汁ねぶかじるごうが深いね」

 外でチリンという音がした。

 屋台に風鈴をぶら下げて売り歩く夜蕎麦よそば売りだ。

「お父っつぁん、二八にはち蕎麦を手繰たぐるかい?」

「………」

 返事がない。

 お栄は長煙管の雁首がんくびを畳に突き立て、片膝を立てるようにして、炬燵布団にくるまった北斎の顔をのぞき込んだ。

 すると、すでに北斎は絵筆を握ったままの恰好で、畳にうつぶせてねむりこけていた。

「おやまあ、今日は妙見さまへ参って、よっぽど歩き疲れたんだね。わたいも寝ることにしよう」

 独りごちたお栄は、貧乏徳利を傾け、底に残った酒をに受けて、それをめるようにすすった。

 風邪を引いているのか、隣に住むかざり職人の男が激しく咳込んだ。安普請の壁を突き抜けて、男の咳はしばらくつづいた。

 お栄は煎餅布団の中で、明朝は四谷信濃坂に出向こうと思い決めた。父北斎の名代として馬琴の葬儀に出るためである。

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