第13話 北斎の回想-其ノ伍

 狐の絵でゴタゴタはあったものの、翌年の文化五年(一八〇八)正月、読本の三七全伝は刊行され、大当たりをとった。

 こうなると、二匹目の泥鰌とじょうをまたぞろ狙いたくなるのが人情というもの。地本問屋の木蘭堂(榎本平吉)が「三七全伝の続編を出せば、また稼げる」と考えたのは至極当然といえよう。

 その結果、北斎と馬琴は三七全伝の続編『占夢南柯後記ゆめあわせなんかこうき』で再び顔を合わせたが、兵吉がもしやと危惧きぐしたとおり、二人の作家はまたもや口角泡を飛ばして舌戦ぜっせんを交わすに至った。

 事の起こりは、馬琴が登場人物の一人に草履ぞうりをくわえさせて、大立ち回りをする場面を描いてほしいと要求したことにある。

 これを聞いた北斎は、「気に入らねえ」とばかりに顔をしかめた。

「わるいけど、そんな絵、真っ平御免だね。いくら切羽せっぱ詰まっても、切った張ったの場面といえど、泥のついた草履ぞうりを口にくわえるやつが、へんっ、どこにいるってんだ。いたら、お目にかかりたいってェもんだ」

 馬琴がすかさずばくする。

「なに言ってやがる。咄嗟に汚ねえ草履をくわえるからこそ、必死の場面が浮かびあがるってェ寸法さね。えっ、そうだろ、そうじゃねェか」

だね。この北斎さまが、そんな汚ねえ図を描けるもんかい」

「おやっ、北斎さまときたね。画工えかきのくせに、自分を何様と思ってやがる。前から言いたかったんだが、今日という今日は言わせてもらうよ。画工は著者の注文どおりに描けばいいのさ。その当たり前の道理が、わかっていないようだね」

 当時、読本などの挿絵は、戯作者の指示に従うのが習わしとなっていた。

 しかし、自尊の念の強い北斎が、人の風下に立てようか。まして、馬琴は北斎より七つ年下なのである。

 馬琴の高飛車な言い分に、北斎は笑止しょうしとばかりに嚙みついた。

「おきゃあがれ。絵師を低く見やがって。冗談てんごうはそのいわしの干物みてェな顔だけにしとくんな。ふんっ、わかってねェのはオメエのほうだ。オイラの絵は文章の添え物なんかじゃねェんだ」

 その北斎の剣幕に、一瞬たじろいだ馬琴のそばを北斎がすり抜け、土間口へとはしった。見れば、自分の履いてきた草鞋わらじを手にしている。

 北斎が草鞋を馬琴の前に投げて言い放った。

「馬琴先生。泥のついた汚ねェ草鞋を口にくわえられますかってんだ。そんなに大層な御託を並べるなら、それを口にしてくんな。さあ、ここでくわえてみなせえ」

「鉄蔵!」

 思わず片膝を立てた馬琴が、北斎の本名を呼び、くやしまぎれに吐き捨てた。

「もう金輪際、オメエとは組みたくねえ。顔を見るのも御免こうむる」

「てやんでえ。あきれかえるの立ち小便だぜ。それはこっちの科白せりふよ」

 北斎は「あれからもう四十年だ。たしかに、だれが死んでも不思議じゃァねえ歳月だ」と胸のうちでつぶやいた。

 だが、あの戯作の鬼が、読本書きの亡者が、果たして往生できようか。

 北斎の脳裡に、あたり一面しもの降りた枯野に、ぽつねんと独りたたずむ戯作者のうしろ姿が浮かんできた。やはり冥途めいどへの道に迷っているのか。茫然と行き暮れている馬琴の背が物寂しい。

 夢うつつのはざまで、北斎は馬琴に「瑣吉」と声をかけた。

 驚いたように振り向いた馬琴の口には、泥まみれの草鞋わらじがくわえられていた。

「お父っつぁん。絵を描き終えたところで、もう一杯、龍眼酒を《の》服むかえ」

 お栄の言葉に、つと北斎はわれに返って、筆を畳紙たとうの上に置いた。

「それにしても、今日はどこに行ってたんだい。もう親父殿もとしなんだからさ。わたいはちょいと心配したよ。もしや、どこかで行き倒れているんじゃないかってね」


 

 

 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る