第12話 北斎の回想-其ノ肆

 北斎は「狐狸図」に卍老人筆と落款らっかんを入れながら、お栄に訊き返した。

「ほう。なんで鎮魂の絵って、思うんだ」

「ずいぶん前に言ってたじゃないか。狐の絵で馬琴さんと喧嘩したことがあるってさ。そうだろ?」

「下らねえことを、よく覚えてやがる」

「ほらね。お父っつぁんは、あんときの喧嘩を思い出したのさ。で、馬琴さんを偲んでってわけだ」

「ふんっ」

 それは、いまから四十年も前の文化四年(一八〇七)のことであった。馬琴の史伝読本『椿説弓張月ちんせつゆみはりづき』前編が、発市うりだされた年のことである。この読本の挿絵を北斎が描き、江戸っ子の評判をとったことは前述のとおり。

 そこで地本問屋じほんどいや木蘭堂もくらんどう(榎本平吉)は、板元の須原屋すはらや市兵衛と組んで、人気作家の二人に新しい読本『三七全伝南柯夢さんしちぜんでんなんかのゆめ』を共作させて、ひと山当ててやろうと目論んだ。

 木蘭堂が見込んだとおり、文章、挿絵とも目をみはるほど素晴らしく、申し分ない出足となった。

「こりゃあ、売れる」

 と、平吉と市兵衛はホクホク顔で喜んだ。

 ところが、この物語の山場ともいうべき場面にきて、北斎と馬琴はまたもや角を突き合わせた。

 原因は、北斎が話の筋の中に出てこない野狐の絵を書き添えたことによるものであった。

 馬琴は野狐の絵の削除を板元の市兵衛に訴えた。

三勝さんかつ半七はんしちの二人が情死をはかる場面は、この物語のいちばんの読ませどころ。いちばんの見せ場だってェのに、なんで野狐けつねなんかを付け加えるのか。これじゃ、まるで狐に化かされて心中しんじゅうするみてえだ。どうみたって、狐は蛇足。こんな図、承服しかねる」

 市兵衛から馬琴の言い分を聞いて、北斎も黙ってはいない。いまいましげな口調でまくしたてた。

「ふん、あのこんこんちきの石頭め。たしかに狐を一匹描きはしたが、だからこそ情死の道行みちゆきにえもいわれぬ妖しさ、もの哀しさが立ちこめるってェものよ。つまり、だ。馬琴の筆の至らざるところを、オイラの筆で補い、入眼じゅがんしてやってるってェわけだ。第一でえいち、あやつの堅っくるしい本が売れるのは、だれのおかげでえ。ほかでもない、この北斎の画力あってのものよ」

 二人とも言いだしたら後に引かない。半歩でも引いてしまえば、一敗地にまみれ、相手の風下に立ってしまうような気がしたのである。

「狐は要らない。消しとくれ」

「わからず屋の唐変木とうへんぼくめ。とうしても狐を消し取れって言い張るなら、この読本用にいままで描いたオイラの挿絵は絶対ぜってえ使わせねえ。ひとつ残らずけェしてもらおうってんだ」

 まだはんにもなっていない画稿がこうをはさんで、売れっ子作家の二人が意地を張り合い、作業は中断した。

 このときは、世慣れた板元の須原屋市兵衛がなんとか丸く収め、結局、北斎の狐は生き残ったものの、気位の高い者同士のいがみ合いがこれで終わるわけがなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る