第11話 北斎の回想-その参

 おみちの手紙から目を離し、北斎は炬燵の中で仰向けに寝返った。何を考えているのか、しわに埋もれた大きな双眼をみひらき、土間口のすすけた天井をはすにらみあげている。

 その父親てておやにお栄が念を押す。

何遍なんべんも言うようだけどさ、お弔いは明日だよ。本当にお線香をあげに行かないのかえ」

「べらぼうめい。だから、言ってるじゃあねェか。あいつとは絶交したんだ。喧嘩別れしたんだ。金箔きんぱく付き、極め付きの犬猿の仲ってやつなんだ」

「ふんっ。絶交したなんて、嘘を築地つきじ御門跡ごもんぜきさね。まったく、手がつけられない天邪鬼あまのじゃくだね」

「………」

「いいかい。もう随分と前の話になるけどさ。お父っつぁんが中風ちゅうぶを患って寝込んだ折、馬琴さんがわざわざ見舞いに来てくれたことを思い出しなよ。おっ母さんが死んだときは香奠こうでんを届けてくれた。耄碌もうろくして忘れたのかえ。義理とふんどしを欠いちゃ、江戸っ子の名がすたるってもんだよ」

「………」

 お栄は知っている。

 餓鬼のように憎まれ口を叩き合い、口汚くののしり合っても、所詮この二人は同じ穴のむじななのだと。唾を飛ばして言い争ったりしても、所詮心が通じあった者同士の小諍こいさかいなのだと。

 実際、北斎と馬琴は何度喧嘩しても、すぐを戻し、互いになんのかんのと言い訳を見繕みつくろって顔を合わせていた。

「ふんっ。いけすかねえ。うんざりだ。もう絶交でえ」

「おおっ、こっちから願い下げだね。二度とオメエと仕事なんかしねえ」

 などといがみ合ったあとも、しれっとした顔で読本『皿皿郷談べいべいきょうだん』等の仕事を共作しているのだ。

 〽いま別れ、道の半丁も行かないうちに、こうも逢いたくなるものか。

 お栄の口から都々逸どどいつが洩れ出た。

 北斎は押し黙ったまま、天井の暗がりを凝視している。

 老絵師の落ち窪んだ眼窩がんかの奥底に、喧嘩仲間の気難しげな顔が浮かんだ。いつも不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、こめかみには蚯蚓みみずのごとく青筋がう。

 それは生涯、武家としての矜持きょうじを捨てきれず、肩肘かたひじ張って生きざるを得なかった馬琴のしかめっ面だ。

 突然、北斎が上体を起こし、長煙管をくゆらすお栄に言った。

「筆だ。すずりだ。付立筆つけたてふでをとってくんな」

「おやっ、何か描くのかい」

 お栄はすぐさま北斎に筆を渡した。墨はせっかちな北斎が思い立ったときに描けるよう、大きな硯でいつもってある。お栄は父親の前に、礬水どうさ引きの画紙やら数種の岩絵具やらを手際よく置いた。

 筆を手にした北斎は、厚い畳紙たとうの上に置かれた画紙の上にすっと描線を入れた。綿のはみ出した炬燵布団を引っかぶった格好で、一気に筆を走らせる。

「おやっ、何を描くってのさ」

 お栄は櫛巻くしまきにした髪のほつれ毛を指先で掻きあげ、北斎のそばに近寄って、その手元をのぞき込んだ。

 北斎はそんなお栄に構わず、筆を勢いよく疾駆させた。何かにかれたように一気呵成かせいに筆を運ぶ。たちまち線が形となり、形に生命が彩られ、魂が宿されていく。この日、北斎が描いたのは双幅の「狐狸図こりず」であった。

 一幅は狂言の釣狐つりぎつねの図。つまり、少林寺の白蔵主はくぞうすという僧侶に化けた狐である。もう一幅は分福茶釜ぶんぷくちゃがまの図。茂林寺もりんじの老僧守鶴しゅかくに化けた古狸の絵であった。

 お栄がその絵を見て、したり顔で言う。

「ふん、そうか。馬琴さんに対するお弔いだね。殊勝にも鎮魂の絵ってえわけだ」

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