第10話 北斎の回想-其ノ弐

 突然、義父の馬琴から「八犬伝の続きを書いてくれ」と頼まれ、みちは驚愕し、首を左右にふった。

「お義父上ちちうえさまのお言葉とはいえ、それは無理です。私ごとき浅学菲才ひさいの者に無茶を申されては困ります」

「みち、誤解するでない。わしが口で申すとおりに物語を書き写せばよいのだ。つまり口述筆記を頼んでおる」

「残念ながら、それも無理です。私めは仮名かな文字しか書けません。それはお義父上さまもご存知のはず」

 みちは紀州藩家老三浦長門守ながとのかみの医師土岐村元立ときむらげんりゅうの娘であるが、当時の女性は真名まな(漢字)にくらく、みちもその例に漏れずであった。

 しかも、馬琴の文章たるや「那時かのとき遅し這時このとき速し、うずま潮水うしお波瀾なみ逆立ちて、百千万ももよろずの……」といった具合で漢字だらけであった。

 馬琴は眉間に深い縦皺たてじわを寄せ、重々しく言った。

「されど、そなたの助けがなければ、わが家は路頭に迷う。真名も教えて進ぜるゆえ、励むのだ。それしかあるまい」

 家長の馬琴からこう言われれば、みちも覚悟せざるを得ない。幼い三人の子らに日々ひもじい思いをさせられようか。

 その翌日から、舅の馬琴が師匠となり、みちの真名修行がはじまった。

 馬琴は漢字の一字ごとに偏や旁から説き教え、一句ごとに仮名づかいを教え込んだ。家計のためということもあったが、作家は作品に命をかける。天才ほど全生命をかける。是非ぜっぴにも八犬伝を完成させたいという馬琴の執念は、みちにも伝わった。

 みちは色白の美印びじるしであった。

 その美女の嫁が、義理の父と日がな書斎に閉じこもっているのである。

 馬琴の妻のお百は、すでに老婆の域とはいえ、女として気持ちの整理がつかない。

 ついには嫉妬のほむらを燃やし、

「そんなに嫁がいいのなら、あたしゃァ、家を出ますからね」

「ふんっ。いっそのこと井戸に飛び込んで死んでやる。ええっ、死にますよ。そのほうがご都合がよござんしょ」

 などと、喚き散らした。

 しかし、馬琴は女の思惑おもいなどに構う男ではなかった。戯作に取り憑かれた妄執の鬼であった。

 おみちを相手に真名づかいを伝授すること二年。悪戦苦闘、難行苦行の果てに、おみちは馬琴の手蹟しゅせき、筆癖までをも写し取るようになった。

 そして、ついに、『南総里見八犬伝』は全九しゅう九十八巻百六冊をもって完となった。無論、日本古典文学最長作品である。このとき馬琴七十六歳。

 文化十一年(一八一四)の初輯刊行から、すでに二十八年の歳月が流れていた。もはや執念の域を超えている。尋常ならざる天才でしか成し遂げられぬ偉業といよう。

 みちの書状に目を落としている北斎に、お栄が言った。

「その手紙の筆跡、本当に馬琴さんそっくりで気味きびが悪いね。亡くなったというに、まだ生きているような気がするよ。錯覚とはいえ、おお、だ。身柱元ちりけもと(首筋)に寒気を感じるよ」

 北斎も同じ思いなのか、無言である。

 浅草寺弁天山べんてんやまの鐘の音が、暮れ六ツを告げた。ヒューッと乾いた音を立てて、空っ風が長屋の路地を突っ切った。

 

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