第9話 北斎の追想-其ノ壱

 お栄が火事場から聖天町しょうでんちょうの長屋に戻ると、北斎は座敷の隅に置かれた炬燵こたつで横になっていた。

 絵を描くのも炬燵の中、寝るのも炬燵の中という父親のために、お栄は朝夕、炭団たどんで温めることを欠かさなかった。

「ううっ、さぶ。次第に冷えてきたねえ」

 お栄は長火鉢の猫板ねこいたの上に置いている貧乏徳利どっくりに手をのばし、割れ茶碗に酒を注ぎ入れるや、グイッと一気にあおった。

 独酌どくしゃくりながら、北斎の様子をうかがうと、鼻の下に水洟みずっぱなの筋を光らせている。

「おやっ、風邪を引いたんじゃないのかえ。ったく、こんなに寒い日にどこをほっつき歩いてたのさ。酔狂なこった」

 北斎が寝返りをしながら言い返す。

「ふん。オメエだって、この寒風の中、酔狂にもまたどこかの火事場とやらだ。人のことは言えねえぜ」

 お栄は「へっ」と唇を歪め、炬燵に寝そべる北斎の鼻先に猪口ちょこを突き出した。

「いつもの龍眼りゅうがん酒だよ。んでおきな」

 龍眼酒とは、北斎が考案した漢方酒で、南国で採れる龍眼という木の実を、焼酎と太白糖たいはくとうで壺につけ込み、六十日寝かせたものである。

 北斎はこれを長寿薬と称し、朝晩二杯ずつ服んでいたというが、上戸じょうこ・辛党のお栄にとっては、甘すぎて口にできた代物しろものではなかった。 

 「そうだ。すっかり忘れていたよ。これが滝澤家からの飛脚便だよ。ご覧な」

 お栄は、馬琴の訃を報せる手紙を北斎の前に置いた。

 龍眼酒を舐めるようにチビチビやりながら、北斎が書状に見入る。

「こりゃあ、御膳ごぜん上等のえらい達筆じゃあねえか。しかも瑣吉の筆跡そのままだ」

「おみちさんの字だよ。馬琴さんの字を手本に永字八法えいじはっぽう(運筆法)を習ったんだから、似てるのは当たり前さね」

 みちとは滝澤家の嫁である。漢字では路と書く。

 文政十一年(一八二七)、馬琴の一人息子興継おきつぐ宗伯そうはく)と祝言しゅうげんを挙げて夫婦みょうととなったものの、そのわずか八年後、生まれつき蒲柳ほりゅうの質の宗伯はあっけなくこの世を去り、みちは三十歳にして寡婦やもめの身となっていた。

 一方、みちのしゅうとである馬琴は、晩年、視力が次第に衰え、宗伯の死から五年後の天保十一年(一八四〇)、ついに失明するに至った。現代でいうところの老人性白内障であったとおもわれるが、馬琴は失意のどん底に陥る。

 この頃、馬琴畢生ひっせいの大作『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』が、完結まであと一歩のところまできていたのである。

 物語の結末までの筋は、すべて頭の中にあるのに、まるきり目が見えない。一両一分であがなった厚眼鏡をかけても無駄であった。

「やんぬるかな」

 馬琴は暗澹あんたんたる思いに打ちのめされた。しかし、ここで筆を折るわけにはいかなかった。長男の宗伯亡きいま、家長として家族を養うためにも、八犬伝だけは石にしがみついても完成させねばならない。

 某日、一汁三菜の粗末な夕餉ゆうげを三歳上の老妻百ひゃく、嫁のみち、孫の太郎、つぎさちの家族六人で済ませたあと、馬琴は嫁を書斎へ呼んで告げた。

「みち、向後こうごはそなたが八犬伝を書くのだ」

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