第8話 お栄の決意-其ノ肆

 お栄は、ベロ藍の澄みきった空を見あげて、心の中で叫んでいた。

「わたいの居場所はここなんかじゃない。バカだね。かまど持ちの悪い女のくせに、ありきたりな夢を見ちまった。世間並みの女の夢を見ちまった」

 ちなみに、ベロ藍とは藍(ベルリンブルー)の略称で、文政十二年(一八二九)当時から使われはじめた阿蘭陀オランダ渡りの化学顔料である。

 ベロ藍はそれまでに用いられてきた植物性の本藍とくらべて格段に発色がいい。その透き通るような青い色は、空や水の描写に最適であった。

 この絵具を使って描かれたのが、かの有名「冨嶽ふがく三十六景」だ。北斎はベロ藍に本藍を掛け合わせた濃べろ、空色べろ、浅葱あさぎべろなどを駆使して、「神奈川沖浪裏」「凱風快晴がいふうかいせい」「山下白雨さんかはくうなどの傑作を次々とものにした。

 お栄はベロ藍の空を見あげつづけた。

 つと両の瞼からうっすらと涙がにじんできた。

「どうかなすったんですかい?」

 お栄のただならぬ様子に、丁稚小僧の表情が、竹箒を握ったままいぶかしげな面持ちに変わった。

 小僧がお栄の顔をのぞき込もうとした、そのとき――。

 お栄は自分の前垂れをすっとはずして小僧に渡し、衝動的に駆け出していた。

 それまでの呪縛じゅばくから解き放たれたように、韋駄天いだてんお栄の足が勝手に動く。

 人目も気にせず、縞の着物の裾を乱し、緋色の蹴出けだしをひるがえして走った。たちまちまげの根がゆるむ。お栄は何かを吹っ切るかのように元結もっといを引きちぎり、髪を乱してひた走った。

 行くあては、父北斎が寡夫やもめ暮らしをする本所相生町あいおいちょうの裏長屋。

 お栄は走りながら、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「引っ返すんだ。で嫌でたまらなかったはずの、あの裏店の暮らしに帰るんだ。どぶこうかにおいが立ちこめる、あの湿っぽい長屋に戻って、しょっぱなからやり直すんだ」

 れ違う人のだれもかれもがお栄に道をゆずった。

 この時代の女は決して走ったりしない。着物の裾を乱し、髪を乱して走るお栄は、気がふれた女と思われたのである。

 人々が驚いた顔をして、脇へよける姿を尻目に、お栄は走る。走るたびに決心が強く、強く固まっていく。

「わたいは、もう金輪際、迷いはしない。絵筆一本でやっていくんだ。貧乏ひってん暮らしの掃溜はきだめの中に、溝板どぶいた通りの泥ん中に、綺麗きれえ蓮花はちすを咲かせてみせる。もう二度と、人並み、世間並みの女の夢なんか見ずに、お父っつぁんとそっくりの変わり者として生きていくんだ」

 つとお栄のからだを熱風が包んだ。

「邪魔だ、邪魔だ。どけ、どけいっ!」

 町火消しの怒声に、お栄はわれに返った。

 目の前で天に炎が噴きあげ、一瞬、身悶みもだえしながら火元の仕舞屋しもたやが崩れ落ちた。

 竜土水りゅうどすいが水を吐き、鳶口とびぐち刺股さすまたが乱舞する。

 火事はおさまりかけようとしていた。

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