第7話 お栄の決意-其ノ参

 幼い頃からお栄の玩具おもちゃは絵筆や墨、反故ほご紙であった。それらを使って心に浮かんださまざまのかたちを描くのである。物心ついてからは絵具や胡粉ごふんにかわなどをいらいながら、父親である北斎の絵を見よう見まねで写し取ってきた。

 以来、絵を描くこと以外にさしたる興味はなく、ましてほうきや包丁には目もくれない生活を送ってきたのだ。

 当然、当時の女の素養たしなみである「おさんどん」ができない。掃除をすれば、角な座敷を丸くき、あげく「あーあ、しち面倒くせえ。女房稼業は疲れるよ」と、不貞腐ふてくされたようにつぶやき、ごろりと横になる。

 台所へ立つ気などはなからさらさらなく、下駄を突っかけたと思いきや、煮売屋にうりやや屋台の四文屋しもんやへ走って、煮物や焼き魚などの惣菜を買ってくる。

 時折、っぴて絵筆を走らせ、うにお天道さまが上がった頃、寝惚ねぼまなここすりながら起きてくる。

 当初は様子見とばかりにだんまりを決め込んでいた姑のキンが、頃はよしとばかりに戦いの火ぶたを切った。

「お栄さん。ご飯の炊き方どころか、お茶さえろくれられない女なんて聞いたことがないよ。それで、おたなの若女将におさまるとは、いい料簡りょうけんじゃないか」

「いいかい。商売あきないってのはびた一文粗末にできないんだ。毎日買い食いなんて、とんでもねえこった。女将のわっちが死んだら、このお店はどうなるんでござんすかね」

「せがれの吉之助は、北斎さんの娘なんてありがたがっているけど、わっちにすればお前さんは疫病神みたいなもんさね。あーあ、頭が痛いよ」

 こんな小言や嫌味を吉之助がいないときを見計らって、口にするのである。

 お栄もついイライラして、ある日の店まい後、暢気のんきに絵筆を走らせる吉之助に当たり散らした。

「お前さんの絵は、所詮、小器用なだけの旦那芸だね。いわば道楽さね。余計なお世話をしてあげるけど、絵師なんてものは伊達だて酔狂すいきょうでできるもんじゃないんだよ」

 絵師としての技倆は、お栄のほうがはるかに高く、吉之助は黙らざるを得ない。

 次第に夫婦間にもぎくしゃくとしたものが立ちこめてきた。

 それでも季節はめぐる。

 ある夏の日、お栄は縞の着物に千歳茶せんさいちゃの前垂れ姿で、見世前みせさきに打ち水をしていた。打ち水が終わったところを丁稚小僧が竹箒たけぼうきでせっせと掃き清める。

 日照りつづきで、風が吹くたびに土埃ほこり濛々もうもうと舞いあがる。そのカラカラに乾いた通りを向こう鉢巻きも威勢よく白玉しらたま水売りがゆく。

「寒ざらし白玉ァ、ええ~、やっこーい、しゃっこい」

 お栄は思わず冷たい白玉をのどに流し込みたくなり、懐に手をのばした。だが、どこかに置き忘れたのか、小銭を入れているいつもの紙入れがない。

 水売りの背中をむなしく見送ったお栄は、くやしまぎれに桶の水を両の手ですくい、汗ばんだ顔を勢いよくバシャバシャと洗った。

 冷たい水の感触が肌に心地よい。

 お栄は、それから柄杓ひしゃくの水をゴクリと音を立てて飲み、ふーっと大きな息を吐いて空を見あげた。刹那、に飛び込んできたのは、抜けるような青天井であった。碧空を映したお栄の瞳孔が極限までひらいた。

「ベロ藍だ。あの空の色は、お父っつぁんのベロ藍だ。わたいはこんな場所とこ一体いってえなにをしているんだろう」

 独り言のようにつぶやいたお栄の手から、き物が落ちるように、柄杓が路上にコトンと滑り落ちた。

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