第5話 お栄の決意-其ノ壱

 時刻は七つ半(午後五時頃)であろうか。

 火の見櫓の半鐘はんしょうは、火事を報せる連打から、「ちょいヤベえぞ」と言わんばかりの早鐘はやがねに移った。

 さらに、早鐘に次いで、擦半鐘すりばんの音が気ぜわしく鳴った。

 擦半鐘とは、半鐘の中を撞木しゅもくき鳴らす音で、火元が近いことを報せるための警告音である。

 お栄が表通りへ出ると、西の空の一角がポッと明るんでいる。

 子供の頃からお栄は、駆けっこをしても男の子に負けたことがなかった。五十近くの歳になったとはいえ、いまでも足には自信がある。

 お栄は裾をからげて、韋駄天いだてん走りになり、火の手があがる神田佐久間町のほうへと夢中で走った。先へ急ぐお栄の心ノ臓が早鐘を打つ。胸の鼓動が擦半鐘のように狂おしく掻き鳴らされる。

 お栄は駆けながら、叫んだ。 

「火事だ、火事だよ。みんな見てみな。炎が見える」

 一寸ちょっとでも早く現場に行かなきゃなんない。お栄は走った。

 火事と喧嘩は江戸の華、そのまた華は町火消し。

 おきゃんな下町っ子のお栄は、火事場見物が三度の飯より好きであった。

 ゴォーゴォーと燃えさかる火の手、炎の中で黒い影となってうごめとびたちの姿、そして赤く染まった屋根の上でまといが高々と舞うのを見るのが大好きであった。

 佐久間町に着くと、仕舞屋しもたやの建ち並ぶ一角が燃えていた。

「あぶねえ。近寄るんじゃねえ。どいてろ、どいてろってんだ」

 町火消の兄ィの怒声に、野次馬の若いのが怒鳴り返す。

「へんっ、こちとらチャキチャキの江戸っ子だい。火事がこわくて、神田に住めるかい」

 緋色ひいろの炎が天に舞う。金銀の火の粉が夜空に豪勢に乱れ飛ぶ。

 だれかが興奮して叫ぶ。

「燃えろ、燃えろ、もっと燃えろいっ」

 お栄が猛り狂う炎の乱舞に見蕩みとれていると、すぐそばで餓鬼がきの声がした。

「すげえ。オイラも町火消になりてえ」

 どこかの大店おおだな丁稚でっち小僧だ。浅葱の油掛け(胸当て付きの前掛け)を、お仕着せの着物の上につけている。

 その小僧の姿を見て、お栄はなことを思い出して眉間を寄せた。

 お栄が思い出したこと。それは、うの昔のことであるが、神田橋本町の油屋にとついでいた頃の苦い記憶である。

「あの頃、はまだ若かった。お父っつぁんに押し付けられたとはいえ、あんとき結婚なんかしなきゃよかったんだ。絶対ぜってえだと言い張りゃあよかったんだ。だのに、若気の至りで魔がさしたのか……ふふっ、嫁いですぐ破鏡はきょう(離婚)になっちゃって……わたいはバッカだね。うすのろの鈍付どんつくだよ。餓鬼の頃から絵筆しか握ったことのない、このわたいが世間並みの女になろうとしても、なれるもんか。そんなこと、自分でもわかっていたくせに」

 お栄は胸の中で独りごち、わが身をさいなむように下唇をぎゅっと噛んだ。その瞬間、しびれるような痛みが走り、舌の先にうっすらと鉄錆てつさび臭い血の味がしみた。

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