第2話 馬琴の訃報―其ノ弐

 北斎とお栄が暮らす裏店うらだなは、浅草寺裏手の支院偏照院へんじょういん境内にあり、この界隈ではたぬき長屋と呼ばれていた。

 長屋にはやたら子供が多い。大家おおやの偏照院が、寄るのない孤児や捨て子らを市中から拾いあげ、養っていたからである。

 上がり框に腰を落として動こうとしない北斎に、お栄が念を押すように言った。

「くどいようだけど、馬琴さんのお弔いは明日だよ。出るかい、出るだろ?」

 お栄に背を向けたまま、北斎は霜髪そうはつのまだらに残る禿頭とくとうを左右にふった。

「オイラ、あいつの死に顔なんぞ拝みたくねえ。それに、瑣吉とは喧嘩別れして、それっきりなんだ。あいつが死のうと、生きようと、おいらにはかかわりのねえこった。いまさら、のこのこと葬儀なんぞに出て、どのつらさげてお悔やみを言うってんだ」

「なに言ってんのさ。先方の滝沢家から訃のおしらせが来たんだよ。出なきゃ、不義理ってもんさね。お釈迦しゃか相手に、喧嘩別れしたなんて、だれもが忘れたような古い話を持ち出すんじゃないよ」

 お栄の言うとおり、それは古い、古すぎるような昔の話であった。

 北斎は遠い眼になって、へっついの暗がりを見た。

 そもそもの事のはじまりは、いまから五十年余も前の寛政四年(一七九二)にさかのぼる。

 この年、北斎は『花春虱道行はなのはるしらみのみちゆき』という黄表紙きびょうし挿絵さしえを描いた。

 黄表紙とは、当時の世相や流行を面白おかしく描いた絵入りの本、すなわち漫画風の読み物で、その名称は表紙が黄色であったことに由来する。

 風変わりな題の『花春虱道行』は世に出るや、滑稽本としてたちまち好評を博した。この本の執筆者は馬琴であった。これが絵師北斎と戯作者馬琴の長きにわたる因縁のはじまりとなった。

 当時、勝川春朗しゅんろうと名乗っていた北斎は三十三歳、世間的にはいまだ無名である。当然、絵筆一本ではまともに食えるはずもなく、ときには唐辛子や柱暦はしらごよみなどを売り歩いて糊口ここうをしのいでいた。

「とんとんとん唐辛子、ぴりりと辛いは山椒さんしょの粉、すわすわ辛いは胡椒こしょうの粉……」

きのえ寅年、柱暦。来年の大小柱暦、じ暦」

 などと呼び声を張り上げて、きょうは浅草・花川戸はなかわど、明日は両国・柳橋と、勝手知ったる大川おおかわ(隅田川)沿いの下町界隈を、とぼとぼとふれ歩いていたのである。

 一方、馬琴は北斎より七歳年下の二十六歳であった。

 お栄が「滝沢家は歴としたお侍さん」と言ったように、馬琴は旗本・松平信成のぶなり用人ようじん滝沢運兵衛興義うんべえおきよしを父として、本所ほんじょ深川にて生をけている。

 十歳にして主君の孫八十五郎やそごろうの小姓としてしたが、読書好きな馬琴にとり、癇癪かんしゃくもちの我儘わがままきわまる幼君のおりは耐えがたいことであったのであろう。

 十四歳の秋、障子に「がらしに思いたちけり神の旅」と墨痕ぼっこん鮮やかに書き残して松平家を後にした。

 その後の馬琴は、長兄興旨おきむねの世話で戸田家に仕えるが、持ち前の尊大な性格から長続きせず、十八歳のとき再び出奔しゅっぽんした。

 以後、渡り徒士かちや筆耕、易者などをして市中を放浪、ようやく飢えをしのぐ生活を送っていた。

 北斎と出遭ったのは、江戸随一の板元はんもとである耕書堂こうしょどう蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうの手代となり、奉公のかたわら戯作修行に精を出していた頃であった。前述の黄表紙『花春虱道行』は、蔦屋から出されたものである。

 

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