087 誕生
トードリーズは工人区の
現れたスィグルたちの一団を玄関に迎え、トードリーズは驚いた様子だった。
いつも、にこやかな様子でいる
ギリスは先触れを送っていなかったのか。
突然現れた客を慌てて出迎えたような、普段着の様子で、トードリーズは王宮にいる時の工人の衣装ではなく、市井の民のような質素な
それを慌てて戻し、トードリーズは自邸の玄関で
こんなところで平素は叩頭する者もいないのだろう。床は石造りで、敷物もなく、砂じみた幾何学装飾の硬い床に、トードは直に
「立礼でいいよ、
小声でスィグルはそう伝えた。
こちらも変装した英雄の
民は英雄には叩頭しなくても良い。英雄たちは王族の身内でありながら、民の友であり
石を持った子であれば、平民であっても王宮に差しだされる。
英雄たちにとっては、そこらにいる平民が、自分の親かもしれないのだ。
部族では、自分の親は
民は英雄達と握手しても良い。対等だからだ。
しかし、そんな掟があるとしても、民は皆、英雄達を尊敬していた。いきなり初対面の英雄と握手しようとする者は稀なはずだ。
トードもそんなことは英雄たちに求めなかった。
「殿下……」
なんと呼んでよいかと困った顔で、それでも仕方なくか、トードリーズは小声で呼んできた。
「お父さん」
玄関への来客に感づいたらしい、この家の子供らが、家の奥から不思議そうに客を見にきた。
そして来客の額に色とりどりの石があるのを見て、三人現れた子供たちは絶句していた。
「あっちへ行っていろ!」
初めて聞くような厳しい声で、トードリーズが子供らを叱った。
それに叩かれでもしたように、子供達は走って逃げていった。
「急に来て済まなかった。たった今、知ったんだ。子供が産まれるんだろ……」
スィグルがそう詫びようとした瞬間、家のどこかから大きな
それにスィグルは息を呑んだ。
まさか生まれたのか、今?
今か?
自分たちが来たせいで、トードリーズは我が子の誕生を見逃したということか。
「うっ……」
青ざめて言葉もなく、スィグルは立ち尽くしていた。他の英雄達もだ。
ただギリスだけが平然と、玄関の奥にある階段の上の、産声が聞こえたほうを見上げていた。
「子供にもし石があったら、ついでに
ギリスは無表情にそう言った。
それを聞くトードリーズはまだ
スィグルにもそれは、悪い冗談としか思えなかった。
笑ってよいのか、少し迷った様子で、トードリーズは笑った。もちろん苦笑だっただろう。
「お気遣い、ありがとうございます。そのような事は、なかろうかと」
「わかんないぜ。見に行って来い。少々なら待てる」
二階を
恐ろしく冷たく感じる。
それでも、ギリスなりの気遣いなのかもしれなかった。子供が竜の涙でないか確かめろというのは。
子供の親は、少しは思うのだろうか。我が子がまさか、そうではないかと。産着のままで、王宮に召し上げられてしまうのか。誕生の瞬間が永遠の別れなのかと。
しかしトードリーズは慣れた様子で笑っていた。
「英雄は
「見に行けばいいのに」
残念そうに口を
「
そう言ってから、トードリーズははっとしたようだった。
「いえ、ご無礼を。この場で
再び平伏してから、トードリーズは立ち上がり、急いで家の奥へと何かを命じに行ったようだった。
ほんの
その時にも一瞬、トードリーズが、スィグルが持っていた仮面に目を奪われたようだった。
でも何も言わなかった。ただ黙って、階段のすぐ奥にある客間に案内しただけだ。
王宮の居室と比べたら、広間とも言えない部屋だったが、美しい内装だった。おそらく庶民なりの
その部屋の首座をスィグルに勧めて、王宮の部屋と同じく敷物と円座のある場所に座らせると、トードリーズは部屋の入り口まで下がって、そこで叩頭した。王宮の儀礼だ。
それをこの庶民風の部屋で見ると、スィグルには奇妙に思えた。
やはり王宮は格別の場所だ。その外にある世界とは、何かが違っているのだろう。
「トード。こんな時に来て済まなかった。出直すことはできるけど、用向きは簡単なものだ。伝えて帰る」
スィグルは今も自分の膝の上にある、やり場のない
トードに何と言うかを、全く考えて来ていなかった。ゆっくりと会い、ゆっくりと話すつもりだったし、まさか工人区のトードの家で会うことになるとは思いがけなかったのだ。
王宮内にある、教えられていた番号の工房を訪ねていくのだと思っていた。
思いがけない大冒険になったなと、スィグルは内心思った。王族は王宮の外には出ない。出るなら族長の許しがいるが、この場合どうなるのか。父の遣いなのだから、許可があるものと思って良いのか。
でももう、ギリスに連れてこられてしまったし、今さらじたばたしても、どうしようもなかった。
「父上から直々の御伝言を預かってきたんだ。お前に預けてある勝負の続きをするので、来るようにと仰せだ。場所はお前が作った部屋だ。僕の弟の……」
スィグルが教えると、トードリーズはかすかに顔を
スフィルの部屋なのが、何か問題でもあったのか。
「
いかにも残念そうにトードは言った。スィグルは返事に困った。
「訳はあるけど、聞かないでくれ。とにかく弟の部屋だ」
それに
「トードは、できましたらお父上様に、殿下のお部屋のほうをご覧いただきとうございました」
「なぜ」
「自信作でございましたので」
あの部屋がか。
スィグルは一瞬、そう答えかけたが、黙っておいた。
トードが見せたいのは、居間や書斎ではなく、寝室ではないかと思えた。あの、花の寝床だ。草を編んだような寝床で寝ているのを、父上に見せろということなのだろう。
なぜ工人のお前が、そんな差し出たことを思うのかと、スィグルは不思議だった。
「他には何か仰せだったでしょうか?」
「他には何もない」
スィグルはそう答えたが、それを聞いたギリスが、ものすごい
「なんだよ……」
気味が悪くて、スィグルは自分のすぐ
「違うだろ。そんな言い方じゃなかっただろ」
「言い方に何の意味があるんだよ。同じ話だろ」
スィグルがもう話は済んだと思い、さっさと去るべきかと気遣っているのに、ギリスはなぜ話を引き伸ばすのか。
トードリーズの一家には今日は新しい子供の誕生の祝いの日なのではないか。それを邪魔してはまずい。
「貸して、それ」
ギリスが指で指し招き、スィグルが膝の上に持っていた
なんでそんなことをしなきゃいけないんだよ。
そう聞くのを待ちもせず、ギリスが勝手に手を伸ばして面を奪ってきた。
族長からの
その姿に、ギリスの
「トードリーズに、昔、預けたままの勝負を俺がもらうゆえ、敗北しに来いと言え」
ギリスは父が命じた時とそっくりな口調で、同じ言葉を繰り返してみせた。
その声はどう聞いてもギリスの声だったが、トードはぎょっとしたようだった。
何か聞き覚えでもあったのか。
仮面を外して、ギリスはため息をつき、まだ驚きに身を引いたままのトードリーズを見た。
「お前、もしかして、この仮面の相手に勝ったことがあるんじゃないか?」
ギリスはトードをじっと見て尋ねた。
「ございません」
トードは落ち着いた口調でゆっくりと答えた。戸口近くの下座に、まだ軽く平伏したままの姿で。
ギリスはそれに首を傾げていた。
「じゃあ、この仮面の持ち主はなぜ今さらお前に会いたいんだ。今まで会わなかった理由はなんだ」
ギリスは不思議そうに聞いたが、トードは困惑の顔でこちらを見てきた。
「分かりませぬ。
「偶然会ったのか?」
ギリスは目を
何をそんなに難しく考えるような事があるのか、スィグルは
トードリーズは若き日の父と王宮の廊下で偶然会ったと言っていた。そして将棋の勝負を挑まれ、敗北して弁当を取られたと。
その話のどこに不審な点が有るのか。
「俺は王宮に十六年住んでるが、廊下で弁当食ってる工人を見たことはない。どうやったらそんなもんと偶然会えるんだ」
ギリスが尋ねると、トードリーズは不思議そうにした。
「私共は、尊いご身分の方々の御前で食事を取ったりはいたしません。ですが、新しい区画を掘る工事では、高いご身分の方々はお越しにはなりませんので、その区画に寝泊まりして働くこともございます」
「そこに来たっていうのか、こいつが?」
仮面を掲げて見せて、ギリスは尋ねた。トードリーズに向けられた
「
トードリーズはそれを悔やむように言っていた。
身分が顔や体つきで分かるわけではない。
どんなに尊い血筋でも、それが
アンフィバロウの
その程度のことだったのだ。父も自分も、その程度のことに命を握られ、最後は
我が身に至っては、その運命はまだ続いており、
父ももしや思っただろうか。自分がアンフィバロウの子ではなく、ただの仮面劇の役者であれば、生き延びられるのではないかと。
「盤上の勝負をご
トードリーズはギリスが持っている仮面を眺め、今もまだそれが不思議という顔つきだった。
「
思い返す目つきになって、トードリーズは言葉を失い悩むふうだったが、ギリスはトードを沈黙させなかった。
「その勝負には仮面のほうが勝ったのか」
急かす口調で聞くギリスに、トードリーズはにっこりとした。
「いいえ。初戦は引き分けでございました。その、仮面のお方が勝負の途中で
「は?」
「空腹の時に、あまりに深く考え事をなさったので、気を失われたんですよ」
「将棋して気絶する奴なんかいるか?」
ギリスは否定的に聞いたが、トードリーズは淡く笑って頷いていた。
「腹が減って頭が回らぬゆえ、先に弁当を寄越せと。トードめが賭けた弁当を、勝ってもいないのにお召し上がりになり、後で勝つと仰せでしたが、その時は貸しのままに」
思い出すと
「それってただ弁当食われただけじゃないのか?」
ギリスは分からないという顔で、スィグルに聞いてきた。意見を求めるように。
「そうとも申しましょうか?」
トードは笑顔で首を傾げている。
スィグルもどう判断したものか困った。
「勝利の前借りだよね」
「そんなの成立するのか?」
ギリスは納得いかないようだったが、トードリーズは困ってはいないようだった。
いつも先に弁当を渡して食わせ、その後に勝負をして、毎度負けていたということらしい。
トードはそのように説明をして、苦笑していた。
「最後の対局の勝敗がついておりませんでしたので、気になさっていたんですね」
トードは納得したように言ったが、スィグルもそれで納得した。
トードに勝たねば、父上はトードの最後の弁当をタダ食いしたことになるのだろう。
民の弁当を勝手に奪って食うのでは、名君とは言えないと、父はずっと気にしていたのかもしれなかった。
確かにそれは寝覚めが悪い。
あと一勝、トードリーズに勝てば、父とトードは借り貸し無しだ。
それでどうなるのか知らないが、とにかくあと一戦、盤上で戦う必要がある。
その手配ぐらいは安いものだ。スフィルの部屋で二人を引き合わせる。
そう意を決して、スィグルはもう一度伝えた。
「お前に敗北しに来いと仰せだ」
「それはそれは」
トードは頷いて、懐かしげに言ったが、ややあってから顔を上げてスィグルを見つめた。
「このトードに勝てるとお思いか」
「へっ……?」
トードが急に強い声で言うので、スィグルの喉から思わず妙な声が出た。
「勝った事ないんだよね?」
「ございません」
トードははっきりと頷いたが、やはり妙な話だ。穏やかに笑う平民の顔を、スィグルは戸惑って見つめた。
「トードはいつも手加減しておりましたので、本気で戦ったことはございませんでした。確かにお強かったですが」
「負け惜しみか。トード。そういうことは勝ってから言え」
苦笑してスィグルは工人を
いつも物腰穏やかでにこにこしており、優しい男に見えていた。
「その日まで仮面は当家でお預かりしてもよろしゅうございますか。この命よりも大切にいたしますので」
両手を差し出して、トードリーズは
スィグルは急に困った。トードがそんな事を求めてくるとは思っていなかったのだ。
自分が
トードは仮面に見覚えがあるようだったし、明らかに父の
だったらそう言って下さればいいのに、なんで言わないのか。
察しがつかず王宮に置いて来ていたらどうなっていたのか、それでも話が付くなら別にいいのではないかと思えた。
仮面が惜しかったのだ。
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