086 馬車

 馬車とは勿論もちろん、馬に引かせた車のことだ。

 箱型の小部屋のような物に車輪をつけ、それを四頭立ての馬に引かせる。

 乗る者の身分によっては馬が増えて六頭立てとなることもあるが、王宮の門から出立する最も一般的な馬車は四頭立てのものだ。

 車内はそう広いものではなく、特に王族用でもない、高級官僚か軍の者達が乗るような馬車だったので、英雄九名を乗せると、中はぎゅうぎゅうの混雑だった。

 小部屋の壁のぐるりに腰掛けがついており、後部から乗り込んだ一番奥の角にはフューメンティーナが座っていた。

 それと肩を寄せて座る訳にもいかず、馬車内での配席には皆に無言の緊張が走った。

 部屋の奥が上座であるのは部族では常識だ。馬車であっても変わりはしない。

 それでギリスがスィグルを奥の壁の真ん中の席に押し込んできて、その両脇にギリスとフューメンティーナが座ることになった。

 ギリスのジョットたちは側面の壁の席に三名ずつに分かれて座ったが、もちろんそこにも序列がある。

 フューメンティーナのすぐ脇には、透視術師のエル・ジェルダインが座り、女英雄にじろりとにらまれていた。

「あなた、近寄らないでくれる? 私の長衣ジュラバに絶対に触らないで」

 フューメは厳しくジェルダインを頭から足までにらんで注意していた。

「触りません。絶対」

 注意されるのも心外だという青ざめた顔で、エル・ジェルダインは承知した。

 供をする髑髏馬ノルディラーンばつジョットたちの中で、一番偉いらしいエル・サリスファーは、ギリスの隣の席でほっとしたように小さくなっていた。

「ごめんね、ジェルダイン……」

 何をびているのか、サリスファーは向かいの席の友に悄然しょうぜんと小声で謝っていた。

 なぜあやまるのか理由は分からないが、スィグルにもサリスファーの気持ちは分かった。

 序列通りに座っただけとはいえ、明らかに怒って見えるフューメンティーナに触りたくはなかった。

 スィグルは、自分ももし王族の殿下でなければ、女英雄と肩を並べて座った席で今どんな目にあっていたのか恐ろしかった。

「いいぞ、出せ」

 ギリスが背中側の壁を叩き、それを隔てて自分たちと背中合わせになっている御者台にいる者に、出発するように言った。

 返事は聞こえなかったが、御者は承知したようで、むちの音が聞こえ、馬車が動きだした。

 急に座席がぐらりとして、フューメは腰掛けからずり落ちそうになっていたが、険しい顔で踏ん張っていた。

 近寄るなと言っておいて自分から髑髏馬ノルディラーンばつの者たちの席に倒れ込んでいては、格好がつかないからだろう。どことなく必死の表情だった。

「ごめんね……こんなところに乗ることになって」

 スィグルは小声でフューメにびた。

 自分のせいではないが、他に詫びる者もいなさそうだったので、気を遣ったのだ。

 フューメは男ばかりのこの車内に座らされ、とても不愉快そうだった。

 英雄とはいえ、彼らの派閥だって男女できっぱり分けられているのだし、部族の他の娘たちと同じく、男と同席するのは恥なのかもしれなかった。

 しかし、その一方で彼女たちには建前というものがある。

 英雄たちに女はいないのだ。

 フューメはそういう、覚悟の顔つきだった。

「いいえ殿下。殿下こそ、このようなむさ苦しい乗り物にお乗りになるなど、おいたわしゅうございます」

 踏ん張って揺れながら、フューメは気の毒そうにスィグルを見てきた。

「何がおいたわしいんだよ。飯食おうぜ」

 いかにも平気そうにギリスが言ってきた。

 そりゃお前は平気だろうよと、スィグルは内心、毒づいた。

 ギリスは末席のジョットたちが膝に持っている、野戦用の弁当箱らしきものを指差して、早く寄越せと言うように差し招いた。

「今食べるの⁉︎ ここで⁉︎」

 叫ぶように甲高い声で、フューメがギリスに聞いた。

「腹が減ってるんだよ!」

 珍しく怒鳴り返して、ギリスはジョットたちが寄越してきた、美しい寄せ木の細工が施された大きな木製の弁当箱のふたを引き抜いた。

 美しい花と五芒星ごぼうせいの紋様が細かく象嵌ぞうがんされている見事な品だ。

 持ち運ぶ際に蓋が自然に開いたりしないようにか、蓋には横から溝に差し込む仕組みで、つるぎの形をした小さな木のかんぬきが差し込んであった。

 ギリスはそれを、ぽいっと馬車の床に放り、どうでもいいもののように扱ったが、フューメンティーナは悲鳴を上げた。

「だめ‼︎ 星園エレクサルばつの伝来品なのよ!」

 フューメが指差した小さなかんぬきをギリスのジョットたちが慌てて拾おうとしたが、結局、車内を転がり回るそれを、フューメンティーナが念動術で拾い上げた。

「本当だ。これめちゃくちゃ美味いよ」

 皆がかんぬき翻弄ほんろうされる間にも平気で食っていたようで、ギリスが何か棒のようなものをかじりながら、フューメに言った。

「なんで先に食べるのよ⁉︎ 殿下におすすめしなさいよ」

 明らかに怒っている声で、フューメがギリスに鋭く言った。それでもギリスには全くこたえる様子もなかった。

「毒味だよ。いきなり食べさせて、こいつが死んだら困るだろ」

 冗談とも本気ともつかない真顔で、ギリスはフューメに答えている。

 スィグルは、せめてそれを笑って言って欲しかった。そうしたらフューメも笑ってくれたかもしれないのに。

「そんなのもうあなたのジョットたちにやらせたわよ。誰も死んでないでしょ!」

 青ざめてはいるが体は元気そうな少年たちを示して、フューメは力説していた。

 優しそうな容姿なのに、ギリスにはいつも怒鳴っている気がする。

 そうしたくなる気持ちもわからなくもなかった。

 派閥の伝来品だという弁当箱の中には、棒状の焼き菓子のようなものが隙間すきまなく整然と並んでいた。

 そこから甘く香ばしい匂いがして、腹が減っているのをスィグルは感じた。

「何これ?」

 何かも分からず食っているギリスがフューメに尋ねている。

兵糧ひょうろうよ」

 不快そうな顔でフューメが答えた。

「えっこれ? 兵糧ひょうろう? 嘘だろ、こんな美味いもん戦場で食ったことない」

 ギリスが不可解そうに反論している。

「まだ、実戦配備はされていないのよ。フューメが考案し作りました、殿下。お召し上がりください」

 ギリスの膝から弁当箱を奪って、フューメはスィグルに勧めた。

 一応はうやうやしい所作でだったが、その前に自分の前に身を乗り出して弁当箱を奪回されているので、スィグルはのけぞって女英雄を避けるしかなかった。

「不殺の料理でございます。ご安心ください」

 驚いているスィグルが、料理の内容を心配していると思ったのか、フューメはにこりとして教えてきた。

 スィグルが作り笑いで手を出す横で、ギリスが身を乗り出して、もう一本取り聞いた。

「何でできてるんだよ、これ?」

 それにもフューメはムッとしていた。

 同じ器から食うのは無作法だからだ。よほど親しい者なら別だが。宮廷ではそうだ。

 でもギリスは気にしていないようだった。

 王族だろうが女だろうが、お構いなしの奴だ。

「粉にひいた麦と豆と油と、蜂蜜と干した葡萄と塩と……いろいろよ」

 しぶしぶのようにフューメが答える。

「エレンディラの団子と大差ないのに、何で美味いんだろう」

 それがいかにも不思議というように、ギリスはしみじみと言いながら、棒状の兵糧ひょうろうを食っていた。

 スィグルもその棒の端っこをかじってみたが、香ばしい匂いがするだけで、何の味もしなかった。

 それでもフューメが心配気にこちらを見ていたので、仕方なく笑って見せた。

 美味くも不味くもないとも言えない。

「美味いよ、これ、本当に」

 ギリスは真顔でフューメをめていた。めているのだろうと思えた。

「お前、英雄なんかやめても、これで食っていけるよ」

「失礼なこと言わないで。やめる訳ないでしょ」

 フューメは黄水晶のような石のある顔を上げ、ギリスにきっぱりと言った。

 どこからどう見ても英雄だ。竜の涙が額を飾っている。

 それにギリスも頷いていた。

「そうだよな。まあ、そうだけど……」

 ギリスは自分が持っている菓子のようなものを眺め、それから馬車に詰め込まれている無言のジョットたちを眺めた。

「お前らなんて、魔法を取ったら何も残らないよなあ。まあ俺もだけど」

 ギリスが暗い顔でしみじみというのを聞いて、スィグルはかじった焼き菓子の粉を喉に詰めそうになった。

 ちょうど自分たちだけ食べて気まずいなと思っていた矢先のことだ。

 ギリスのジョットたちも空腹そうに見えると心配していたのに、髑髏馬ノルディラーンばつの少年たちは空腹を忘れるほどのことを言われ、さっと青ざめたように見えた。

「そんなことないですよ兄者デン‼︎」

 何かに弾かれたように、ギリスの隣でエル・サリスファーがビクッとして言った。

 ギリスはすぐ隣にいる翡翠色の石の少年を、菓子を齧りながら見ていた。

「そうか? お前に氷結術以外の何があるんだよ?」

「うっ……う……」

 何も無いのか、サリスファーは喉が詰まったようにうめいてギリスと見つめあっていた。

「サリスは詩作が得意です、兄者デン

 フューメンティーナの横で行儀良くしていたジェルダインが、穏やかそうな声で教えてきた。

 ジェルダインは揺れる馬車の中でも姿勢を正し、指を揃えた手を膝上に置いている。英雄の絵のような凛々りりしい姿だった。

「あ、そうなの?」

 それで詩殿にお供したいと、先刻、廊下で話した時にサリスファーが言っていたのかとスィグルは納得した。

 髑髏馬ノルディラーンばつの少年たちは皆、にこやかで行儀がよかった。

 まだ年若い者ばかりとはいえ、さすがは最大派閥の英雄たちと言えた。

 スィグルはそれに少し安心した。やはり髑髏馬ノルディラーンを選ぶべきだろう。自分にくみする者たちとして。父もそうだったのだから。

「いえ、そんな。僕の詩作はまだ全然です、殿下。時々、たしなむ程度で……」

 恥ずかし気にサリスファーが謙遜しており、ギリスのジョットたちは皆にこにこしていた。

「じゃあお前ちょっと何かうたってみろよ」

 ギリスが悪気ないふうに急に求めると、サリスファーはそれにもビクッとしていた。

「え……今ですか?」

「うん」

 あっさりと答えながら、ギリスはどんどんフューメンティーナの焼き菓子を食べている。

 他の者には勧めないのか、スィグルは気になってしょうがなかった。

「無理です、兄者デン

 低い声でサリスファーが断ってきた。それにギリスはびっくりしたようだった。

「何でだよ。俺はお前のデンだぞ?」

 命令だぞと言いたいのか、ギリスは硬い声だった。

「サリスファーは、音痴なんです、兄者デン

 ずっと黙っていた誰かが、急にそう言った。

 サリスファーの隣に座っている者だ。

「誰だっけお前……?」

 ギリスが唖然あぜんとして言うのに、スィグルも唖然あぜんとした。

「エル・カーリマーだよ、ギリス。お前のジョットだろ⁉︎」

 あまりの事に黙っていられず、スィグルも思わず叫ぶ声になった。

 知識の晶洞しょうどうで、通路の奥にいたジェルダインに伝令をしてくれた念話者だ。

 そのカーリマーが、よほど可笑おかしかったのか、あははと声を上げて笑った。

「俺は歌が上手いです、兄者デン。サリスの代わりに歌いましょうか?」

「そうなの? 自信あるのか」

 ギリスが聞くと、よほど自信があるのか、エル・カーリマーは少し大人びた顔でにやにやしていた。

「あります。俺から魔法を取ったら、歌が残りますよ」

「いいね。歌ってみろ」

「腹が減って歌えません。魔法も歌も、腹ぺこでは無理です」

 エル・カーリマーに言われて、ギリスはきょとんとしていた。

 ギリスは気づいていなかったらしい。弟たちが空腹ということに。

「食え」

 ギリスは横にいたサリスファーに弁当箱を渡してやっていた。

 そうして回ってきた食糧を遠慮なく取って、エル・カーリマーがこちらを見てきた。

「発言したついでに殿下にうかがってもよろしいですか?」

 物怖じする気配もなく、こちらをじっと見てくるエル・カーリマーに、スィグルはうなずいて見せた。

「殿下はなぜ……仮面劇のめんをお持ちで、その……額に……」

 エル・カーリマーは自分の額に石のあるあたりを指差し、言いにくそうに言葉を探していた。

「その、石はなぜあるんですか?」

 聞いても良いのかと戸惑うように、エル・カーリマーは言った。

 率直なたちのようだ。

 他には今まで誰ひとり聞かなかったのに、エル・カーリマーは聞くんだなと、スィグルは感心した。

 ギリスが持ってきた平たい宝石のようなものを、馬車に乗る前にのりで額に貼られたのだ。

 額冠ティアラもまた奪い取られていた。

 取り返してふところに大事に持っているが、日に二度も冠を奪われるとは、我ながら迂闊うかつだった。

 それだけでも不名誉なのに、鳥餅とりもちみたいなものがついた石を額に押し当てられたので、もしもそれが武器なら自分はまた死んでいたなと思わざるをえない。

 なぜそんなことをするのかとギリスに聞きたいところだったが、聞くまでもなかった。

 英雄のフリをするためだ。偽物の竜の涙だ。

 まさか、そんなことを本物の英雄たちの前でやらされるとは、スィグルも思いがけないことだった。

「こいつも今日だけ英雄エルなんだよ」

 答えに詰まったスィグルに代わって、ギリスがあっさりと説明していた。

「はぁ……今日だけですか」

 エル・カーリマーは不思議そうにしていた。

 彼らが怒るのではないかと、スィグルは危ぶんだ。

 ギリスが持ってきた石は、子供用の玩具おもちゃで、宝石などではなく玻璃ガラスを溶かして作ったものだ。

 市井には英雄エルごっこをする子もいるのだ。

 実は王宮にもいる。スィグルも子供の頃に弟とやったことがあった。

 母に見つかって、ひどく長いお説教を受けた。

 そういうのは本物の英雄がいないところでやる遊びだ。少なくとも元服後の者がやることではない。

 ギリスが持ってきた玩具の石は、侍女からもらって来たものだという。

 変装するためにだろう。王族が工人こうじんのところへ遣いにおもむくというのではまずいが、民の友である英雄エルが民と交わるのは構わないということだったのだから。

 それでも、こんな玩具で変装されては、英雄たちは良い気分ではないのではないか。

 彼の石は糊で貼ってある訳ではなく、頭の中から生えていて、いずれ命を奪う代物だ。

 ふざけてるのかと、不快に思わないだろうか。

「今日は妙な日ですよね。学徒になったり英雄になったり」

 カーリマーは手に持っていたエル・フューメンティーナの焼き菓子を不思議そうに眺めて言った。

「俺たちもたまには英雄やめてもいいんじゃないですかね? なあ、ジェルダイン。一日くらいさ?」

 焼き菓子を齧って、エル・カーリマーは嬉しそうに言った。

「馬鹿言うな。毎日、英雄だ」

 誰の目を気にしているのか、エル・ジェルダインは気まずげにこちらを見ていた。

 フューメンティーナを見ているのか、それともスィグルに遠慮しているのかだった。

「俺はやめたくない。一日も」

 ギリスが難しい顔で言った。その隣でサリスファーが気まずそうにしていた。

「すみません、兄者デン。カーリマーは冗談が過ぎる奴で。悪気はありません」

「別に怒ってない」

 ギリスはしれっと本気のように答えた。

 エル・カーリマーは怒られたと思ったのか、済まなそうに誰にともなく頭を下げていた。

 それでも彼がさほど悪びれていないのは目を見たら分かった。悪戯いたずらっぽい目だ。

「おびに歌います。その仮面ですが、殿下」

 スィグルが父からもらったまま持っていた仮面を、エル・カーリマーが手で示した。

 妖しい微笑を浮かべた、高貴な女の顔だ。枯れ谷アシュギル系統の妖艶ようえんな美女だった。

「それの歌を」

 エル・カーリマーはいかにもよく知っているように言っていた。

「この仮面には何か意味があるのか?」

 仮面劇に造詣ぞうけいがあるわけではないスィグルには、その意味までは分からなかった。

 ただの美しい顔の女面おんなめんに見える。

「ありますよ。殿下は仮面劇はご覧にならないんですか?」

 不思議そうにエル・カーリマーが聞いてくる。

 仮面劇は部族ではよくある娯楽のひとつだが、古典文学を題材とした格調高いものから、市井の暮らしを題材とした卑近なものまで、様々の演目があった。

 王子の見るものではないと、幼い頃に母上が言っていた。

 父リューズが歌劇を好み、詩人たちや楽師や役者が重用されたため、玉座の間ダロワージで演劇が行われることもあったが、子供が見るものではないと言われた。

 だから見ていない。

 思いがけない自分の素直さに気づき、スィグルはびっくりした。

 普通は見るものなのか?

「この仮面は、いろんな意味がありますが、大体は王家の囚われの姫君やお妃様の役柄で使われるものです。頭のおかしい王家の女性なんですよ」

 にこやかなエル・カーリマーの説明に、スィグルが呆気にとられていると、カーリマーの斜向かいにいたエル・ジェルダインが低い声でたしなめた。

「カーリマー。言葉をつつしめ」

 なぜジェルダインが怒るのか、スィグルにはよく分からない気がしたが、それなのにきもが冷えた。

 後宮って、そういうところだろうか。気の狂った姫や妃がいるような?

「すみません。でも本当なので。一番有名なのは壁籠かべごめのお話です」

 カーリマーは詫びたが、気にせず続けた。

「筋書きは幾つか種類があるんですが、大体似てます。美しい王家の姫か、お妃様が、後宮の庭なんかで平民の男と出会うんです。道に迷った兵士とか、壁や窓を修繕している工人こうじんとか」

工人こうじん……」

 スィグルは自分の手に持った仮面が淡く微笑んでいるのを、視界の端に感じた。

「俺は知りませんけど、後宮の窓も壊れる時は壊れるんでしょうね?」

 エル・カーリマーは悪気のない顔で、あっけらかんと馬車内で揺れている一同に聞いた。

 誰も何も答えなかった。

 後宮の内部を知っているのは、この中ではスィグルだけだっただろう。

 美しいところだが、別に後宮と他の王宮内に、根本的な違いはない。

 窓があれば壊れるだろうし、壁や配管や暖炉が壊れたり、増改築が必要なこともあるだろう。

 その際には工人が遣わされるということだろうか。

「姫と平民が恋に落ちるんですが、大体最後は男の方が死ぬんです。斬首とか、壁籠かべこめで」

壁籠かべごめって何だ」

 スィグルは馬車の揺れに酔いそうな気分で聞いた。

 水を飲みたかったが、あいにく馬車にはそんなものは無さそうだ。

「生きたまま壁に塗り籠める刑罰です。死刑の一種で、たぶん後宮にしかないんだと思いますが、姦通罪の処罰として執行されるそうです。本当にあるのか知らないですけど、仮面劇には出てきます」

「どんな歌なの?」

 スィグルはカーリマーのいかにも気楽そうな顔を見て聞いた。

「愛しき我が君、この歌声はまだその耳に、届きましょうや。愛しき姫様、聴こえております。死霊となり果て、今もお側に」

 カーリマーが突然歌ったので、皆びくりとした。見事な声量だったのだ。

 しかもカーリマーは二人分の音域を歌ったようだった。

 初めの方は女のような高音の声だったが、途中からは低い男の声だった。

 どちらも悲しげに聴こえた。

 それを無表情に歌うカーリマーは、歌は上手かったが、歌う人形のように見えた。

 でも、とにかく上手い。

 自ら歌が上手いと言うだけのことはあった。

「上手すぎるだろ、お前。詩人になれ」

 驚いた様子でギリスが叫ぶように言った。

 それにカーリマーは、あははと快活に笑った。

「なりたいんですけど、詩作の才能がなくて。サリスと足して二で割れると丁度いいんですかね?」

「二で割るか?」

 軽口をきくエル・カーリマーに、ギリスは真剣に答えていた。

 確かに二で割る必要はなかった。

 詩人は詩作も行い、詠唱もして、楽器も奏でるため、一級の宮廷詩人ともなると、幾つもの才能を兼ね備えていなくてはならないことになる。

 歌が上手い上に、詩作もできなくてはならない。

 それが建前だが、実際には詩人にも詩作を得意とする者と、伝来の詩の詠唱を主とする者がいるのだ。

 その意味では、エル・カーリマーは竜の涙を持って生まれなければ、今ごろ別の衣装を着て、琴を抱き、詩殿しでんにいたのかもしれなかった。詩の詠唱を一生の職務とする者として。

 でも石を持って生まれたせいで、今はこうして髑髏馬ノルディラーンばつにいる。

「すごいね」

 そうとしか言いようがなく、スィグルは思わず褒めた。

「ありがとうございます」

 カーリマーはごく当たり前のように賞賛を受け、答礼していた。

「何でその仮面をお持ちなんですか?」

「……分からない」

 父が自分に下賜かししたのだと思っていた。でも、違ったのかもしれない。

 父は一体、これを渡して何を言いたかったのか。

「エル・カーリマー、このめんの姫の相手の役柄は、もしかして必ず死ぬのか?」

「そうです。たぶん。俺の知る限りでは」

 カーリマーは不思議そうに言った。

「持ち歩くのは不吉ではないですか? その面。なぜお持ちなのかと」

「届け物だろう」

 話を聞いているのかも分からなかったギリスが、長い焼き菓子の最後の一口を食い終え、急にそう言った。

「これから会う奴に伝える伝言だ。工人の男はもう死んでると思ってたんじゃないか、お前の親父は」

 ギリスは隣にいるスィグルに首を傾け、そう尋ねてきたが、声をひそめる訳ではなかった。皆に隠す気はないらしい。

「お前ら、今日これから見聞きすることは他言無用だ。でも行っていいってエレンディラが言ってた」

 ギリスが指に付いた塩気のある粉を舐めながら言うと、ずっと黙っていたフューメンティーナがじろりとにらんできた。

「エル・エレンディラが。いいって言ってた。勉強して来いってさ」

 ギリスが言い直していた。一応何かは感じているらしい。

「私もいいの?」

 強気で睨む割に、フューメンティーナは遠慮がちにギリスに尋ねた。

「いいよ。お前らが帰還式の先頭にいるならだけど」

「そんなの、私の一存では決められないんですけど?」

 つんと済ました顔で、フューメは困ったようにギリスに言い返した。

「決めろよ。お前がどうするか、決めていいんだ。このまま新星に仕えるか、それとも馬車を降りて、王宮まで歩いて帰るかだ」

「どこなのよ、ここ?」

 はっとしたようにフューメンティーナが馬車の窓の辺りを見た。

 鎧戸よろいどが降りていて、景色は見えない。中にいる者を見せないためだが、中からも外が見えなかった。

 ギリスがあごで示して、サリスファー達に馬車の両側面にある鎧戸を開けさせた。

 埃っぽい匂いがして、砂牛のうめく声が聞こえ、通りを行き交う黒髪の頭が幾つも見えた。髪飾りもない、結っただけの蓬髪ほうはつで、土埃をかぶって白んでいる者もいた。

 小さな窓から見えるのは、様々な色合いの色漆喰の壁の家々だ。

 どれも手の込んだ造りの建物だが、貴人の住まいではない。

 洗濯物が棚びく庭が見えた。

「ここどこなの⁉︎」

 口元を覆って、フューメンティーナが叫んだ。化け物にでも出会ったみたいに。

「第四層の工人区だ」

 ギリスは極めてあっさりと言ったが、第四層は平民の住む階層だった。

 貴人の来るところではない。

 英雄たちもだろう。恐らく。

「トードリーズは休みを取って自邸に戻ってるらしいんだ。子供が産まれるんだってさ」

 それが何でもない事のようにギリスは教えてきた。

 しかしスィグルは言葉も無かった。

 子供が産まれるところに立ち会ったことなどない。

 手ぶらで突然来るような時だろうか。

 それに、今さらだが王宮の外だ。なし崩しに心の準備もなく、ギリスに連れて来られてしまった。

 揺れる馬車が止まり、到着いたしましたと戸が開かれた。

 御者が、乗客を馬車から降ろすための踏み台を扉の外に持ってくるのが見えた。

 降りろということだ。

 馬車の外には質素な服装の平民たちが見えた。

 官僚馬車をいぶかしげに眺めてくる、頭上に煉瓦れんがを満載したかごを乗せている者もいた。

 首が折れないのか?

 スィグルはその事にも度肝を抜かれたが、はなを垂らしている泥まみれの幼い兄弟が、手を繋いで馬車を覗き込みにきて、御者にむちで追われるのにもギョッとした。

 何をするんだ、小さい子供に。

 だが子供たちは無言でサッと避けて、走り去っていった。

「ギリス……行くのか?」

 溜飲りゅういんして、スィグルは隣で立ち上がった射手に尋ねた。

 ギリスは不思議そうにこっちを見てきた。

「はあ? お前が行くってゴネたんだよな? ここがトードリーズの家だ。さっさと降りろ」

 無表情に言い、ギリスはさっさと馬車から降りていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る