083 道連れ

 エル・フューメンティーナには謝るしかないとスィグルは思った。

 なにしろ父の命令のほうが大事だ。そのはずだった。

 トードリーズへの伝令は特に急ぎではないのだろうが、族長命令なのだ。それよりも私用を優先するというのでは、王族としてもだが、忠実なる臣民としての正気を疑われるだろう。

 だからやむを得ないのだ。エル・フューメンティーナも英雄である以上、きっと分かってくれるだろう。

 スィグルは弟の居室を出る時にはもう、そのように腹を決めていた。

 しかし、まだそわそわと落ち着かない顔の衛兵たちが守る扉を出たところで、ギリスがあっと小さく声を上げた。

 黄金虫こがねむしの紋章が大きく描かれた弟の部屋から見えている場所に、スィグルの居室の扉があり、その雀蜂すずめばちの紋章の扉の前で、一人の少年がうろうろしていた。

 エル・サリスファーだ。

 それが翡翠色の石を額に生やした顔で、ギリスと同じように、あっと驚いたようにこちらを見ていた。

兄者デン!」

 やっと見つけた探し物に安堵したように、エル・サリスファーが駆け寄ってきた。

 駆け足と速歩のぎりぎりの境目だった。

 走ってはならぬとよほど厳しくしつけられているのか、英雄たちは決まり事に従順に見えた。

 そのものすごい速歩に圧倒されて、スィグルは心なしかギリスの陰に隠れてサリスファーが来るのを待った。

星園エレクサルばつと話がつきました。第十八魔洞で殿下をお待ちすると、エル・フューメンティーナからのお返事です。いつでもお越しくださいと」

 まず深々とこちらに立礼してから、サリスファーは熱意の感じられる、きびきびした口調でギリスに報告した。

 いかにも忠実なジョットという感じで、スィグルは内心、目を丸くした。

 ギリスってそんなに偉いのか。英雄たちの間では。

 スィグルには、ギリスはいつもぼうっとして見え、時々、破天荒だが、ちょっと年上なだけの少年だと思えていた。

 トルレッキオ学院ではこのぐらいの年頃の学生は大勢いたし、彼らも常に威張っていたが、なにしろ第四大陸ル・フォアでもっとも偉いはずの天使と普段から居慣れてしまったスィグルには、大抵の者が大して偉いとは思えなくなっていた。

 でも、偉いのかもしれなかった。エル・ギリスは。こう見えて、こいつもたぶん救国の英雄の一人だ。

 こんなに若年なのに、スィグルの祖父、暗君デールが生涯をかけても成し得なかった、ヤンファールの守護生物トゥラシェの撃破を成し遂げた。

 それによって自分たちは、領境を森の果てにまで一旦は押し戻すことができたのだ。

 それを成し遂げた者が、仲間の英雄たちに尊敬されないはずはなかった。

「それがな……サリス。殿下に他に用事ができちゃってな……」

 ギリスがジョットに近寄っていって、こそこそと言いにくそうに説明していた。

 あまり偉そうには見えない。

「えぇ……?」

 サリスファーは悲壮な顔で小さく答えていた。

 ギリスはそれに頷いて見せて、小声で付け加えた。

「どうしても別のところに行くって殿下が聞かないんだ。やっぱり今日は無しだって、フューメに伝えてくれよ」

「無理ですよ。兄者デン、せめて自分で行って伝えてください。僕が行った時はもう、エル・フューメンティーナもジョットたちも、なぜか知っていて、ものすごく盛り上がっていたんですよ。ものすごく楽しみにしてますよ、あいつら」

 サリスファーは小声で早口に、ギリスにだけ伝えているつもりのようだったが、少し離れている程度では、スィグルには全部が聞こえた。耳が良いのだ。

 何かがいたたまれない。

「誰か死んでもいいような奴を選んで、断りの伝令に送れ」

 ギリスはひそめた声でジョットに教えている。

「それ誰なんです!?」

 泣きつく声でサリスファーがギリスに尋ね、顔を背けるギリスの長衣ジュラバそでを握っていた。

「ダメですよぉ、あいつらもう弁当作ってます」

 それがもう決定的だという口調でサリスファーがギリスに囁いていた。

「弁当?」

 ギリスが悩む顔で不思議そうに言った。

「手作りらしいですよ。あの女英雄、料理ができるんです!」

 それが恐ろしいことのように言うサリスファーに、ギリスも困惑の表情だった。

「死ぬような料理か、エレンディラみたいな?」

「違いますって。美味いんですよ、本当に。僕らも皆、毒見させられました。めちゃくちゃ美味いんですよ」

 信じられないことだというふうに、サリスファーは青ざめて注進している。

 それを聞き、ギリスも険しい顔になったようだった。

「もう食ったのか!? どういう神経してんだお前、デンである俺が飯も食わずに働いてんのに」

「すみません……」

 叩頭していいなら、ここで跪拝きはいしそうな声色で、サリスファーがひそひそとギリスに詫びている。

 スィグルはそれを一人で廊下に立って、ヘスの衛兵たちと聞いていた。

「殿下から昼食のお誘いがあったので、星園エレクサルばつを上げて歓待のため、厨房で腕を振るったらしいです。料理する連中なんですよ。知ってました? 魔導訓練もしたいと伝令したら、それなら野戦用にってエル・フューメンティーナのデンたちが言い出して、料理を急いで弁当に詰め始めたんです」

「俺らが知識の晶洞しょうどうで馬鹿の扉をくぐってるうちに、あっちじゃ、そんなことになってたのか」

 いかにも不思議だというように、ギリスがしみじみと感想を述べていた。

「これでもし急にすっぽかしたりしたら、エル・フューメンティーナの顔は丸潰れですよ。せっかく帰還式の行列にも来てくれる手筈てはずなのに……」

 スィグル以上に困っているように、サリスファーは青ざめて困っていた。

 そんなに気苦労をかけていたとは、スィグルはさらに居所のない気分になってきた。

「わかった。もう言うな」

 ギリスは小声でまだ何か説明していたサリスファーの口を押さえて、急にこちらに向き直り、咳払いして戻ってきた。

「あのな、スィグル」

「全部聞こえたよ」

 ギリスがなんと説明するつもりなのか、手間を省いてやったつもりだ。

 サリスファーも困り顔で、少し離れた場所から、おろおろとこっちを見ている。

 様子をうかがう小動物みたいだった。枯れ野でこちらを警戒している時の、穴兎の見張りのやつみたいだ。

「あのな……行った方がいいと思うんだ。飯だけでも」

 ギリスはこちらにも、ひそひそと話してきた。無表情にも見えたが、ギリスも一応困っているらしかった。

 ヘスの衛兵たちも気まずそうに聞いている。

 もしや、断ってはならぬのかと、スィグルも戸惑った。

 しかし、早くトードリーズに会いたい。のんびり飯を食ったり、念動術の訓練などをやるより、この際、まずは工房に行くべきだろう。

「魔導訓練もするのか?」

 どうするんだよという気持ちで、スィグルはギリスに尋ねた。

 年長者なのだから、ギリスが何か作法をわきまえているにちがいないと思ったのだ。

「それはまたにしようって、お前が自分で話せ。大事な急用ができたって。あいつらも英雄だ。王族に逆らったりはしないだろう」

「お前の口からそんなこと言われるとは意外だよ」

 ギリスが言うにしては、もっともな話に思え、スィグルはたじろいで答えた。

「俺も、お前がそこまで気を使わない殿下だったとは、意外だよ」

 まるで自分は誰かに気を使っているみたいにギリスは言っていた。

 先ほどサリスファーに話していた時のように、ギリスは間近の距離からこちらを見下ろすようにして、ひそひそと言ってきた。説教するみたいに。

「工房に行く前に、まず相談しよう。その方がいいと思う」

 ギリスは苦い顔をして、そう提案してきた。

「誰にだよ」

 スィグルはぽかんとして聞いた。

デンにだよ! ジェレフはもういないし……こうなったらあいつだ。エレンディラ」

 スィグルの想像を絶する者の名を、エル・ギリスは挙げてきた。長老会の女長デンだ。

 呆れた気分で、スィグルはギリスの顔を見上げた。

 なぜ僕がエル・エレンディラに相談するのか。長老会の者に?

 父上が誰と会おうが、僕がどこへ行こうが、そんなものは自由だ。

 何しろ族長の遣いだ。ギリスだって父上から直々に命令を受けたではないか。

 この部族でもっとも偉い者の命令を実行するのに、一体誰の許しがいるというのか。馬鹿馬鹿しい。

 そういう、ムカっとした顔を自分は見せたのだろうか。ギリスは困り果てたように見えた。

「考えろって。なんでイェズラムがあの工人と族長を会わせないようにしたか、何か理由があるよ、スィグル。けど俺は知らないんだ。教えてもらってない。でもエレンディラなら知ってるかもしれないだろ」

「知りたいなら、今から墓所にいってイェズラムの石に聞け。僕はエル・フューメに詫びてから、トードに会いに行くよ」

「スィグル……」

 頑固な驢馬ろばか砂牛でも見るように、ギリスは名を呼んできた。

「来ないなら来なくていいよ」

 むかむかしてきて、スィグルはギリスをその場に放置して歩き出し、離れて待っていた心配げなエル・サリスファーの方へ行った。

「使いに走ってくれて、ありがとう。エル・フューメンティーナに会いたい。連れて行ってくれるか」

「はい殿下」

 青い顔だったが、サリスファーは素直に返事をしてきた。

 英雄とは、家臣とはこういうものではないかと、スィグルには思えた。主君の命令には逆らわないものだ。

 そういう者が欲しいのか、自分でもよく分からないが、ギリスはいちいちおかしい。

 こんな変なやつじゃなく、長老会がもっとマシな射手いてを寄越していたら、僕ももっと信用しただろうに。

 ヤンファールの戦いで戦功があったせいで、彼らはギリスを選んだのか。

 それなら、特に武功がなくても、このエル・サリスファーや、知識の晶洞しょうどうで道を見つけてきてくれた透視術師のエル・ジェルダインみたいな、歳近く思慮深いふうな子たちのほうが慕わしかった。

 もしかして年上でないといけないのだろうか。射手ディノトリスは新星のデンだからか?

 伝承ではアンフィバロウの双子の兄なのだから、同い年でないとおかしいだろうに。いろいろと辻褄つじつまが合わない。

 射手いてだとかデンだとか、彼らの言い分にまともに取り合うことはないと、急にそう思えてきた。

 長老会がどう思っていようが、彼らは竜の涙のデンに過ぎず、その主君である王族が取り合うようなことではない。

 大体、彼らのさきデンであったエル・イェズラムも、父リューズに対して不遜ふそんであったようだ。

 自分には、イェズラムは頼りがいがあって優しく、そんな嫌な人とは思えなかったが、旅の道連れとしてはそうだった彼も、父の宮廷では違ったのかもしれない。

 父が言うように、彼はもう死んだのだ。

 大英雄の死を民も宮廷もいたんだが、もういない人のことを常におもんぱかる必要はあるまい。

「行こうよ、サリスファー」

 不機嫌そうなギリスのことを気にして眺める翡翠の石の少年に、スィグルは歩き出すよう促した。

「はい……お供します」

 さっさと歩き出すスィグルに、サリスファーは仕方がないように付いてきた。

 そっちではないと言わないところを見ると、スィグルが当て推量で歩き出した方向は、正しかったようだ。

 スィグルの後をついてきたのはサリスファーだけで、ギリスはまだ黄金中こがねむしの扉の前にいるままだった。

 長老会の部屋サロン玉座の間ダロワージの側にあるはずだ。そこにいるエル・エレンディラに会いたいのなら、行く方向が逆だということだろう。

 こんな簡単に道が分かれるとは、ギリスの忠誠心などたかが知れている。

 あいつは結局、僕に仕えてるんじゃなく、長老会の者なのだろう。

 もっと言うなら、エル・イェズラムの亡霊に仕えているいぬなのだ。

 なんでそんな者が、ずっと僕の味方をしてくれるのかと、スィグルには分からなかった。

 自分は亡き大英雄に肩入れされるような、どんな功績があったというのか。

 もしや人質のことかと、スィグルには不思議な気がした。

 こちらが思っていた以上に、スィグルが部族のための人質となったことを、大英雄は重く見ていたのだろうか。

 だが、自分が明日にも殺されるかもしれない場所へ、自ら出向くことにしたのは、どうせそうなるに決まっていたからだった。

 人質にやる王子を籤引くじびきで決めさせるというが、忍び込んでくじを見てみたら、そのほとんどにスフィルと自分の名が書かれていた。

 その筆跡はいろいろだったが、皆の意見が、末子の双子のどちらかが死ぬべきと告げていた。

 そうだろうなと、少々の衝撃とともに眺めた。

 その時は、なぜあのくじの部屋に簡単に入れたのか、分からなかった。

 扉を開くように命じると、衛兵が額冠ティアラに恐れ入ってスィグルを室内に通したからだ。

 王族の命令だったからなのだろうか。それだけではなかったのではないか。

 実はあの部屋には誰でも入れたのではないか。

 くじに書かれた王子の名を書き換えたい者は、誰でも入ることができ、その大勢によって選ばれたのが、自分と弟のスフィルだった。

 もし、あのまま籤引くじびきが行われたら、スフィルが人質としてトルレッキオ学院に送られ、そこで死んだかもしれなかった。

 一人で学寮の部屋に置き去りにされた気の狂ったあいつを、一体誰が世話してくれただろうか。

 優しいイルスやシェル・マイオスが、あいつに餌をやってくれたかもしれないが、弟がそれを理解して受け入れたかはわからない。

 そもそも、そんな僅かな希望さえ、あの時、あのくじの部屋に立っていた時の自分にはなくて、弟はまた遠い敵地で泣き叫び、飢えて死ぬのだとしか思えなかった。

 一人で。誰にも惜しまれることもなく。

 自分は、その空想に耐えられなかっただけだ。

 弟でなく自分が行けば、次こそは、誇り高く自決して果てる覚悟だったし、死ぬ前に敵に一矢いっし報いることだって、少々ならできる。雪辱するのだ。そういう思いで紙切れに自分の名を記し、弟の名前のものと入れ替えた。

 だから、あの時、玉座の父がどのくじを引こうが、自分が選ばれると決まっていたのだ。

 そんなことをしたのが正しかったのかどうか、今はもう分からない。

 トルレッキオは、ヤンファールを超える地獄だったか。

 そんなことはなかった。

 自分は実はただ、そこへ行きたかったのではないか。

 本音ではそう願い、弟の機会を奪ったのだろうか。天使に会うために。

 どうせ死ぬなら、そこで天使に謁見し、まだ生きている身でじかに罪の許しを乞いたかったのかもしれない。

 弟と自分の、魂の救済が欲しくて、同じ死ぬなら良い条件に思えたのかもしれなかった。

 それをイェズラムは、第十六王子の健気な献身と思ったのだろうか。

 そうだとしたら、大英雄の目も、ずいぶん曇っていたと言わざるをえない。

 ただの人質でしかないなら、自分も他の兄弟たちと同じように、誰かに押し付けて逃げようとしただろうか。

 それが意味するのが、弟の死でも……?

 でも、そんなことで族長になれるなら、誰だってトルレッキオに志願しただろうと思えた。

 終わってしまった今だから言えることだが、どうせ死ぬのが殿下の定めだ。急死に一生を得る機会が、あの山々での一年にあったというなら、スィグルにとっては割りの良い買い物だった。

 皮肉だな。もしもそんなことで僕に敗れるなら、絹布を賜る兄上たちは皆、悔しがるだろう。

 あの時、自分の名のくじを弟に入れ替えさせるのではなかったと。

 しかし未来は、誰にも分からなかったのだ。あの時には。

「殿下……兄者デンは、来ませんね」

 エル・サリスファーが言いにくそうに、スィグルに付き従って歩きながら、おずおずと伝えてきた。

「別に構わない。僕はもともと一人で行動するのが平気なたちなんだ」

 高貴に取りすまして、スィグルは言った。

 サリスファーは気まずそうにこちらを振り向いた。

「僕も、お邪魔でしょうか」

「そういう意味じゃないよ」

 心配げに言うサリスファーに、スィグルは苦笑して答えた。


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