082 使者

 もちろんだスィグル・レイラスと答える父を期待していたスィグルは、また悲壮な顔になった。

「え……」

 言葉が出ず、スィグルが思わずうめくと、父は困ったように笑って見えた。

「まだ知らぬ。お前はそれにふさわしい息子なのか? 俺はお前をよく知らん。一度はシャンタル・メイヨウに奪われ、生きて戻ったが、次はブラン・アムリネスがお前を奪った。でも戻ってきたな。次は何をするのだ、息子よ」

「次……」

 泳ぐ目で、スィグルは父の座る円座の床あたりを眺めた。見てもそこには答えはないが、尋ねられても頭が真っ白だった。

 自分が何も考えていないのではないかと、スィグルは危ぶんだ。

 どうしたらよいのかと、トルレッキオから戻ったこの一月あまり、ずっと悩んではいたが、考えてはいなかったかもしれない。自分はただ困っていただけで、無思考だった。

「考えていないのか。呑気なやつだ、お前は。それでは玉座には座せぬ」

 あははと笑って、父は悪気なく言ったようだが、スィグルは黙って座したまま、ずしりと傷ついた。

「まだ十四歳だ。時はある。じっくりと考えよ。お前の父が生きている間にだぞ」

 励ますように言う父の言葉は、晩餐の席で聞いた時の、話にやってきた家臣たちに会話の終わりを知らせる口調に聞こえた。

 もう立ち去れ。次の者、来いと、父が言い出しそうで、スィグルは焦った。

「ち……父上! お話したいことが」

 気が焦るまま、スィグルは咄嗟とっさに引き留めた。

 何を言うつもりなのか、実は決めていなかった。考えるより早く、引き止める言葉が口を突いたせいだ。

 何を言い出すのかと自分でも困り、スィグルは父に不思議そうに見られながら、ゆっくりと縮こまった。

「何の話だ」

 今にも首座から立ち上がるような気配を見せていた父が、また座り直し、スィグルを見つめた。

 スフィルは座ったまま、うとうとし始めている。まさか父の膝で眠る気かと、スィグルは気がかりだった。

「あのう……」

 何を話せばよいのか分からなくなり、スィグルは動揺しながら口籠もっていた。

 頭は何かを考えている気がした。目まぐるしく。

 ギリスが心配げに、じっとこちらを見てきた。何を言う気かと、氷の蛇の鋭い目が、自分を射抜いている気がした。

「トードリーズのことを、ご記憶でしょうか」

 思わず、そう言ってから、スィグルは自分でも驚いた。

 父と一対一で話せる、この貴重な時間に、自分は何を言うつもりなのか。

 他に何かなかったのか。例えば、先ほど思っていた、虹の谷エーリシュギルのことや、停戦のことなど、父と話すべきもっと重要な事柄がいくらでもあったはずだ。

 なぜトードリーズが出てくるのか。

 将棋。そうだ。父が将棋のことを言っていたせいだ。

 亡き正妃ナオミ姫が、将棋を指す妃だとは、スィグルは知らなかった。

 父上はよほど将棋がお好きだったのだろう。今では誰とも指さないようだが。

 それは父に匹敵するような棋士きしが滅多にいないせいだろう。

 自分が父の相手をできれば良いが、あいにくそのような覚えがなかった。

 将棋など、子供時代の遊びとして、弟のスフィルと指した程度だ。

 トルレッキオ学院にも似たような盤上の遊戯はあって、同盟の子供達の間で対戦があったが、その時にも自分は特筆すべきほど強くはなかったと思う。特にシェル・マイオスにはよく負けた。

 にこにこ、ぼんやりして見えるくせに、あいつはやけに強かったのだ。

それを父に知らせるのが自分に有利だとは思えなかった。

「トードリーズ?」

 父は首を傾げていた。知らないのかもしれない。

 しかし、工人トードリーズの話では、父とドードとは浅からぬ縁だ。忘れたりするだろうか。

 父は不思議そうにスィグルを見ていた。

「なぜ、その者をお前が知っている?」

 リューズはいぶかしげに尋ねてきた。

 憶えているのだ、トードリーズのことを。

「トルッレッキオへの随行者でした。工人たちのデンとして、学院まで付き従ってくれました」

 スィグルが早口に教えると、父は険しい顔になり、やがてがっくりと項垂うなだれた。

「そうか……知らなかった」

 それがひどく悔やまれるというように、父は項垂うなだ れたまま、低い声で答えた。

「エル・ギリス。お前の養父デン勿論もちろんそれを知っていただろうな? あいつも随行者として、この息子と共にトルレッキオに行ったのだ。他の随行者を知らぬはずはない」

 責めるような声だった。父はそれをなぜかギリスに言った。

「なぜ、言わないのだ。イェズラムから俺には一言もなかった。トードの行方は知らぬと言ったきり、おそらく探しもしなかった!」

「俺のせいじゃないし」

 叱責する口調の族長に言われて、ギリスはあっさりと答えている。

「あいつはなぜ平気で俺に嘘をつくのだ。叛逆はんぎゃくだぞ!?」

「王族を工人には会わせられないからじゃないですか」

「そんな道理があるか……?」

 悔やむように、族長リューズ・スィノニムが亡き大英雄を恨んでいた。

「御身分が」

 肩をすくめて、ギリスは教えていた。言わずもがなのことだ。

 しかし父は納得していないようだった。

「トードは命の恩人だ。あいつがいなければ、俺は即位する前に飢え死にしたかもしれぬ。それは聞いているのか?」

「だいたいは」

 ギリスは実にざっくりとした答えだったが、父はそれに頷いていた。

「では分かるだろう。俺が救国の名君だと言うなら、トードはそれを救った男だ。救国の英雄だぞ」

「工人ですけど?」

「関係ないだろ」

 一応聞いたけどという顔つきのギリスの質問を、父は真顔で一蹴いっしゅうしてきた。

 関係ないわけはなかった。王宮の序列は厳格なもので、貴人以上の身分の者しか、族長に謁見できないのだ。

 そういう決まりだ。

 だが、まあ、そう言いながら自分もトードリーズには会っている。今後も工房を訪ねるつもりだ。

 ギリスはだめだと言っていたように思うが、そんなことは知らない。

 なぜ自分がそう思うのか、スィグルも改めて考えると不思議だった。

 矛盾しているのかもしれない。王族の掟とは。

 しかし、そこはそれ。これはこれ、それはそれだ。

「トードリーズをここに呼びます。将棋をお指しになっては?」

 スィグルはとっさに思いついたことを、熟考もせず提案した。

 それにアスハの衛兵たちと、エル・ギリスが息を飲んでいた。やめてくれと言うように。

「呼べるのか、あいつをここに?」

 驚いたように族長リューズが確かめてきた。

「はい。たぶん。この部屋を作った親方デンなので。部屋の改装とか、修理とかには、命じればトードリーズが来るはずです」

「そんな簡単なことだったのか」

 驚き嘆くように、父がつぶやいていた。

 簡単なことなのかは分からなかった。

 普通、貴人は、特に王族は、身分の低い者と会うことはない。会ってはならぬのだ。

 族長となると、さらに、面会してよい相手は限られてくる。

「しかし、あまり時はないのだ、息子よ。今日もお前がいないすきに久々にスフィルに会いに来て、族長の昼飯時はもう終わるゆえ、戻らねばならぬ」

「昼食は毎日召し上がるのですよね」

「そうしたいものだな」

 父は苦笑して答えた。

「では毎日お越しになれるはずではないですか? トードは忙しいらしいので、毎日とは行きませんが、暇があれば来るのではないかと」

「工人が来るのを毎日俺にここで待てと言うのか」

 呆れたように、父は確かめてきた。

「そうは申しませんが……いきなりトードを呼びつけて、明日来いとは言えません」

 スィグルは困って、気まずく答えた。

 トードは頼めばすぐに来てきてくれるのだろうかと思った。

 教えられていた工房に今すぐ呼びに行ってみても良いが、トードは常にそこにいる訳ではないという口調だった。

 まずは話をつけるところからだ。

「トードは父上のことを怒っています。それはご存知ですか」

 スィグルが念のため教えると、父は少しムッとしたように眉をひそめた。

「知らぬ。工人風情が俺に何を怒っているのだ。あいつの功労をねぎらい、即位後に恩賞を与えた。タンジールの工人区に屋敷と財産を下賜かししたはずだ」

「はずだ、とは?」

 含みのある言い方をする父に、スィグルは思わず尋ねた。

「俺が見に行って確かめた訳ではない。イェズラムに命じ、あいつが誰かに命じ、その誰かがそのように取り計らったはずだ。その後は知らぬ」

「それでは無責任ではないですか?」

 つい言ってしまってから、スィグルは父が真顔でこちらを見ているのに気づいて、軽くぞっとした。

 そんな批判的なことを父に言うべきではなかったかもしれない。

「そう思うか?」

 父は首を傾げて聞いてきた。

 スィグルは言葉に詰まった。

 しばらく誰も何も言わなかった。

 王族同士の会話に口をはさめる身分の者など、この場にいるとしたらギリスぐらいだ。

 スフィルはもう床に転げて眠っていたし、ギリスはかたわらにいるのは感じられたが、押し黙り何も言わなかった。

「俺もそう思うのだ、息子よ。それでイェズラムにも相談はした。トードの恩にもっと報いるべきではないかと。しかし、ダメだと言うのだ」

「誰がダメだと言うのですか」

「イェズラムがだ」

 父はきっぱりと言った。

「イェズラムは父上の家臣ではありませんか」

 驚いて、スィグルは思わず声を上げたが、それを見て父リューズは悪戯に引っかかった者を見るような目で、ふふふと楽しげに笑った。

「その氷の蛇はお前の命じることを何でも聞くのか?」

 ギリスを見て、父は興味深げに聞いた。スィグルは唖然としてギリスを振り返ったが、かたわらに座す氷の蛇は無表情な真顔だった。

 話は聞いていたのだろうが、極めて素知らぬ顔だった。

「エル・ギリス。呼んで参れ。工人区へ行ってトードリーズを。ここで目通りする」

「ご命令とあらば」

 ギリスは真顔で答えた。

 もっともなことだ。族長の下命なのだから、ギリスが逆らえるはずがない。

 しかし族長リューズ・スィノニムは加えて命じてきた。

「スィグル・レイラス。お前も共にいけ」

 父にそう命じられて、スィグルはそれに頭礼して、拝命しようとした。

 もともと行くつもりだったし、簡単な命令だった。こちらに否やはない。

 それで父の役に立つなら、お安い御用と言えた。

 しかし黙っていたギリスが急に喋ったのだ。

「それはダメです。殿下は王族です。工人にそこまでの使者をお送りになるのでは、あまりにも身分を超えます。俺だけでも、十分すぎます」

 まるで物事の道理を弁えてでもいるかのような口調で、ギリスが沈鬱に言った。

 それに父はかすかに眉を上げて、にやりとした。

「そうか? では、それでも良いが、誰か見張りを付けねば、お前はおそらく行かぬだろうな。イェズラムも自分では行かなかったのだ」

「わがままを言わないでください。英雄はいいけど、王族はダメなんです」

 ギリスがムッとした顔で平たく言っていた。

「王族はダメでも英雄ならいいんだろ。そうらしいぞ息子よ。俺はトードと話をつけてきてほしいだけだ。使者は王子でなくてもよい。息子を遣わす」

 にっこりとして言って、父はふと気付いたように、自分の座る首座の脇に置いたままだった美しい女面おんなめんを見た。

 そして、それをなぜかスィグルに笑顔で手渡してきた。

「女官でも良いぞ。これをお前にやろう。何でも好きなものになれ、息子よ。時にはその額冠ティアラも外さないと、頭が重いだろう」

 父がにっこりと言うと、四隅よすみに控えていたアスハの兵の一人が、苦しげな咳払いをした。

「分かった時間だな。もう行こう。よろしく頼んだぞ、スィグル。トードリーズに、昔、預けたままの勝負を俺がもらうゆえ、敗北しに来いと言え」

 そう言って、父は立ち上がった。

 音もなく体重もないような所作だった。長衣ジュラバの肩に女官の衣を羽織ったままだ。

 スィグルは慌てて叩頭した。父を見送るためだ。

 首座から立った父は、敷物の上で眠るスフィルを起こさぬようにか、気配の薄い足取りでそこを出て、女官たちに平伏されながら、彼女たちが出入りするための小間こまの戸をぐぐった。

 王族の居室の裏にある、侍女や侍従が使う通用路から来たということだ。

 そこ以外に、居室の正面の扉を通らずに中に入る道はない。そこから来たのだと分かってはいたが、なぜバレないのかと思った。

 そこは飾り気のない質素な通路だが、見張りの衛兵も立っていれば、行き交う女官もいる。見咎められずに通れる場所ではない。

 スィグルもそこを通ったことがあるので知っていた。

 衛兵は、部屋を抜け出しても見逃してくれるが、後をついてくる。

 子供時代のスィグルが王宮をこっそり徘徊はいかいしていた時にも、おそらく衛兵がついてきていた。

 全速力で走る子供に、重たい鎧姿よろいすがたで付いてきた者たちは、おそらくスィグルを恨んでいただろうが、今はもう誰だか分からない。

 父の衛兵たちは忠実なようだった。部屋を抜け出す、元は殿下だった者にも、衛兵たちは大人しく付いてきてくれるということなのだろうか。

 そんな簡単なことなのかと、スィグルも驚いた。

 父と会うのは何も、壮麗な族長の居室の、気の張る豪奢ごうしゃな居間でなくても良いのだ。

「あはは……」

 何かが可笑おかしくて、緊張が解けたスィグルは笑った。

「あははじゃないよ。お前の親父っておかしいんだよ。何でこんなところにいるんだ」

 ギリスが自分の奇矯ききょうさをたなに上げて、父をののしっている。

「スフィルに会いにきたとおっしゃってたじゃないか」

「族長が飯も食わずにウロウロするな」

 悪態をつく口調でギリスは言ったが、そう言われてスィグルはハッとした。

「昼食を召し上がられていないのではないか?」

 空腹かとさっき父に聞かれたが、スィグルは空腹だった。昼食時なのだ。

 その時間に抜け出て来てしまっては、父上は空きっ腹で午後の政務にあたることになるのではないか。

 それが急に心配になって、スィグルが弟の居室の侍女たちを見ると、おずおずと控えていた女たちの一人が、困ったように口を開いた。

「お召し上がりになりました。……スフィル様と」

 気まずそうに女が言った。ギリスを刺した女だ。勇気がある。

「何を召し上がったんだ」

 首座にある皿にはスフィルが食っていた生肉が乗っているだけで、他に食べ物らしいものは見当たらない。

 まさかと思うが、父がそんなものを食うわけはなかった。

 確か、王族は火を通していないものは食べてはならぬ決まりだ。生食なましょくは野蛮で、けがれているせいだ。

 そう言い伝えられている。

 スィグルは怖々細めた目で、丸い皿に僅かに残っている生肉の薄く切ったものを見やった。

 嫌な気がした。

 口中に唾液が湧いて、思わず溜飲りゅういんする。

「次は御身分にふさわしい食事の御膳を用意してお待ちしろ」

「申し訳ございません。いつも急においでになるのです」

 言い訳する口調で女が反論してきた。

 恨みがましい目で思わずそれを見て、スィグルは唇を噛んだ。

「なぜ言わなかった」

「申し訳ございません。口外せぬようにと、きつく……」

 女は言いにくそうに口ごもり、なぜかギリスを見た。

 その盗み見るような視線を受けて、ギリスが珍しく、明らかなしかめっ面をした。不満そうに。

「誰に言われたんだ。族長にか」

「いいえ……」

 ギリスに答える女官の声は、いかにも恐れているふうだ。

 今朝方、ギリスに斬首刑をちらつかせて脅しつけられたばかりなのだから、仕方がないだろう。

 口をきいてもらえるだけ有難いと思うべきだ。

「誰に言われたんだ。他に誰が知っている」

 厳しく問うギリスは、自分が知らなかったことに腹を立てているふうに見えた。

 やっぱり怒る時もあるんじゃないかとスィグルは内心思った。

「イェズラム様でございます」

 青ざめた顔で、懐剣の女が答えた。

 それにギリスはさらに顔をしかめた。

 スィグルはその不機嫌な英雄を横目に眺め、確かに氷の蛇だなと思った。

 怒っているギリスは苛立って見え、まるで鎌首を上げて餌のねずみ威嚇いかくする毒蛇みたいだった。

 もちろんそれは詩的な表現の部類だ。

 しかし、ヤンファールでギリスをうたんだ詩人が、これを氷の蛇と名づけたのも理由があってのことなのかもしれない。

「そんなことはイェズは言っていなかった」

「大英雄もお前に何もかもは話せなかったんだよ。父上もそうおっしゃってただろう」

「父上父上うるさい」

 ぴしゃりと叩くようにギリスが言ってきた。それにスィグルは唖然とした。

「なんだよその言い方。僕は王族だぞ。いくらなんでも無礼だろ。言葉に気をつけろ」

 さして咎める気はなく、スィグルはギリスをたしなめるつもりで言った。

 ギリスの口の利き方は、どうしようもないと思えた。

 先ほどの族長である父リューズへの軽口も、とんでもなく不敬であったし、今もまだギリスの髪が長く、首と胴がくっついているのは、父上が英雄たちに寛大だからだ。

 そうでなければ今ごろ、斬首を命じられて、悪面レベトの魔除けの舞を見ている頃だろう。

 首を斬る前に、刑吏は皆の前で踊るものらしい。

 不吉極まりない。

 スィグルは自分の手にある女官の仮面を眺め、その不気味な想像を追い払おうとした。

 そういえば父から直に物をもらったことはない。何かを手渡されたのは、これが初めてかもしれなかった。

 それも、何だか可笑おかしかった。父上からもらった初めての贈り物が女官の面だなんて。

 名工が彫ったらしい木彫りに彩色をした美女の顔は、色白で美しく、妖しい笑みだった。

 その顔立ちは、王家も属するとされる枯れ谷アシュギル系統のものだ。そのせいか、女官の仮面なのに、ずいぶん高貴な顔立ちに見えた。

 美しい。誰もが一目で見惚れるような、美貌の仮面だった。

 せっかく貰ったのだし、ありがたく拝領して自分の居室に飾ろうかなと、スィグルは微笑んで仮面を見つめた。

 それとも、これを被れば自分も、枯れ谷アシュギルのアンフィバロウみたいになれるだろう。

 父はそう言いたかったのか。

「ニヤニヤしやがって、何を喜んでるんだよ。気持ち悪いぞお前。そんなもん貰った程度で何が嬉しいんだよ」

 怪物でも見るような目でギリスがこっちを見てきた。

 嬉しいに決まってるだろう。名君リューズが手渡しでくれた物だぞ。

 そう思ってから、スィグルは自分が、本当には父を知らないのだと気づいた。

 父リューズ・スィノニムはいつも勇猛果敢な英雄譚ダージの中にいて、常勝不敗の軍を率いていた。

 御伽噺おとぎばなしの英雄みたいだ。

 そのいさおしの中の父を、自分はずっと崇拝して生きてきたのだ。

 さっきまでこの部屋の首座にいた人物が、それと同じものなのか、スィグルには分からなかった。

 父はスィグルをよく知らないと言っていた。こちらがどんな息子で、どんな王子なのか、父も実はよく知らないのだろう。

 そりゃあ、滅多に会いもせず、腹を割って話したこともない同士が、ただ血がつながっている程度で分かるわけがないか。

 そう思えて、それも何か可笑おかしかった。

 よく知らないのでは、自分のことを格別の息子と思ってもらえなくても、致し方ないか。

 知っていただく。

 急にムカっとしてきて、スィグルは仮面を持ったまま、すくっと立ち上がった。

 急すぎたのか、ギリスがビクッとしていた。

「行くぞ」

 スィグルは命じる口調できっぱりとギリスに言った。

「どこへ?」

 ギリスはまだ座ったまま、心持ちのけぞるようにしてこちらを見上げていた。

「工房だよ」

 スィグルは当たり前だろうという顔で言ったつもりだった。

 ギリスは呆れたような顔をした。

「工房って……お前、星園エレクサルばつの女英雄たちを自分で誘っておいて、すっぽかす気か?」

 それが酷く恐ろしいことと言うように、ギリスが心なしか青ざめて見えた。

 そうだった。エル・フューメンティーナ。

 スィグルは昨夜見た彼女の優しげな笑顔と細い指を思い出し、困った。

「えぇ……どうするんだよ、こういう場合?」

 誰にともなく尋ねたが、侍女たちもギリスも、それぞれが思い思いに青ざめていて、誰も何も答えない。

 ただ弟のスフィルだけが、満腹したのか、幸せそうな笑みで眠り続けていた。

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