080 仮面

「あんまり父上と話したことがないんだ。全部憶えてるぐらいしか無い」

「いいじゃん。憶えてる方が」

 ギリスは励ますように言った。

「確かにお前が言うように、せっかくの常勝不敗の名君が玉座にいて、その息子が何も受け継がないのは問題ある」

 父は誰かには教えているのだろうか。例えば第一王子とか、あるいは父が内心、これこそ永遠の蛇の継承者と思う息子に、こっそり教えているのか。

 それが自分ではないことを恥だと思うべきだろうか。

 ギリスはそう言いたいのか。僕が父上に目もかけられていない、その他大勢だって。

 そう思うと恥ずかしく、スィグルはムッとした。確かに父には大切にされていない。

 子供の頃でさえ、母の寝所に渡る前に父は後宮の子供達を呼び寄せて、不自由はないかと聞き抱き上げてくれたが、双子だったせいでスフィルと半分こだった。

 双子でなければ独占できていたその時間が、スフィルのせいでいつも半分だと思い、不満だった。

 もっと父上に絵を見せたり、弓矢の上達を見せて褒められたかったのに、後宮ですら父は多忙で、幼い王子たちはさっさと寝るよう侍女に連れ去られてばかりだった。

 母上さえいなければ、もっと父と遊べたのかと、幼心に恨んだものだ。

 幼い頃の記憶に残っている父は、とにかく会うたび楽しい人で、輝くように美しく、いつもうっとりさせられた。その血を自分が引いていることに、まだ素直に喜べたのだ。

 自慢の父だった。今もそうだが、あの頃と比べて驚くほど遠くなった。

 本当は、森で見た何者かのことも、虹の谷エーリシュギルのことも、自分は誰よりも真っ先に父に話すべきだったのかもしれない。

 自分の父親である以上に、あの人はこの部族の支配者なのだから。

「どうやって父上と話せるのか分からない」

 スィグルは不満に思い、ギリスに力なく文句を言った。

「えぇ……それは、族長の部屋に遣いをやって、謁見えっけんしたいって申し入れるんじゃないか?」

「別にそんな正式な話がある訳じゃない。ただちょっと話したいだけなんだ。この前の晩餐の時みたいに」

「行けばいいじゃないか?」

 ギリスはそれが当たり前みたいに言っている。

 英雄たちには族長は気安い相手なのだろうか。血を分けた家族よりも。

 そんなの不公平だった。

「俺が遣いに走ろうか? お前がちょっと話したいと言ってるって、族長に伝えてくる」

「いいよ、馬鹿! エル・フューメンティーナと会食したいんだろ、お前は。それから魔導訓練なんだ」

「そうだけど」

「話すことなんか無いんだよ別に。わざわざお時間をいただくなら、もっと話をまとめてから行くよ」

 自分が父と、どんな話をしたがっているのか、自分でも分からない。分からなきゃ話にならないのだ。

 話すべきなのかも分からない。何も分からなかった。

 救出されてすぐの頃も、今に至るまで、父は自分たち兄弟に虜囚時代のどんな話も求めなかった。死に損ないとなじりもせず、生きて戻ったことを褒めもしない。もう大丈夫だと言っただけで。

 父にとってはおそらく、自分たち母子のことは、触れてはならぬ傷なのだ。過去の傷だ。

 もう誰も話題にはしない。陰で嘲笑う者や悪口の種にする者はいるのだろうが、父を恐れて、おおっぴらに言う者はいない。ヤンファールの勝ち戦の陰で起きた、ちょっとした出来事で、もはや語るまでもない。

 英雄譚ダージにはなんと、双子の兄弟の名前すら出てこないのだ。ヤンファールのいさおしに自分やスフィルの名は無かった。誰でもない双子の王子が救い出される物語で、そこにある自分の無名さに、空恐ろしい気がした。

 父は自分や弟や母のことは、歴史に残さないことにしたのだ。

 それがどの王子だったのか、生きてる民は皆が知っているのに、詩人たちが名を挙げてうたうことは許さなかった。

 自分はまだ、仮にこのまま死んでも、天使が人質にとった王族として、記録に名を残すのだろうが、スフィルは理由のわからない病気で死んだ王子として、何の功績もないままになるのかもしれなかった。

 それでも、やむを得ないと思うが。

 何かが納得できなかった。

 スフィルには、何の落ち度もなかったのに、ただ王族の子だというだけで酷い目にあい、誰にも同情されず死ぬのだ。自分もそうかもしれなかった。

 もしかしたら、あの時、誇り高く死んでいれば、英雄譚ダージうたったのかもれない。自分たち兄弟の名を。幼くも、栄誉ある死を選んだ、アンフィバロウの子供たちとして。

 納得がいかない。スフィルがあまりに哀れで、自分が哀れだった。その悔しさのせいで、自分は復讐がしたいのかもしれない。父や、この美しい都市にいる同族たちに。

 深く考えると、スィグルには何も分からなくなった。自分が何を愛し、誰を守ればいいのか。

「スフィルの顔を見たい」

 スィグルは急に思い立って、ギリスにそう頼んだ。

 ギリスはその話に、きょとんとして見えた。

 何が意外だったのか。

「昼食に行く前に、弟の様子を見たい。あいつ朝も菓子しか食べてないし、昨夜も食べたか知らない。一人じゃ食べないんだ。ほっとくと餓死しちゃうよ」

「そんな訳ないだろ」

 ギリスが呆れたように言ったが、スィグルは無視した。

 ギリスにはこちらの弟はどうでもいいのだろうが、王宮でスフィルの心配をしているのはもう自分だけだ。スィグルはそう思っていた。

 自分だけが良い思いをして、弟を放置することに、少々の気まずさがあった。いつも兄弟で分け合ってきたのだ。何もかも。

 あの素晴らしい図書館も、自分だけが見たというのが、今さら後ろめたかった。

 弟も書物が好きだった。幼い頃には一冊の本や絵巻を一緒に眺めたものだ。

 スフィルは今では別にもう、あの図書館を見たいとは思わないだろうが、正気であれば見たかったかもしれない。

 その弟が共にいないのが寂しかった。何をどうしたら良いのかも分からず、自分はただ心細いのかもしれない。

 目の前にいる射手いてにも、どこまで頼って良いのか分からなかった。

「お前、ずっと僕に付きまとう気か、ギリス。一日中ずっと?」

 否定的に聞こえる声で、スィグルは尋ねた。どうするつもりでギリスがここにいるのか、そういえば聞いていない。

「一日中って訳にはいかないかもしれないけど。俺にも自分の用がある時もあるし、魔導訓練や診察の日もある」

「診察……?」

 スィグルは顔をしかめて聞いた。

 ギリスは元気そうに見えるのに、本当は病者なのだ。さっき見た、黎明の英雄譚ダージにあるように。

「そんなに頻繁じゃないよ。俺は元気だし、魔法もそんなに使ってないから」

「魔導訓練て、しなきゃいけないもの?」

 ギリスの石を透かし見る気分で、スィグルは今は学徒の頭巾で隠されている額を見た。

「しないと魔法が衰えるんだよ。訓練は魔法戦士の義務だ」

 ギリスはさも当たり前のように言った。スィグルはそれにため息をついた。

「じゃあ、戦があってもなくても、お前たち魔法戦士は日々この王宮で自分の命をすり減らしてるわけだ」

「そういうことだ。どっちにしろ死ぬんだ。天使に頼んでくれ。俺たちは戦がしたい」

「無理だよ」

 スィグルは首を横に振って、ギリスを置いて歩き始めた。

 速足に戻ると、ギリスは黙ってそれについて来た。

 博士の学房がある場所まで、もう道を憶えたので迷うことはなかったが、すれ違う学徒や衛兵に見咎められないか、少し冷や冷やした。

 だが誰も気づかなかった。そういうものなのか。自分が殿下で、ギリスが英雄でも、茶の衣と頭巾一枚で誤魔化せるものなのだ。

 戻ってきた王子と英雄を、老博士は先ほどの学房でにこやかに迎えた。

「いかがでしたかな、知識の晶洞しょうどうは」

 叩頭を受けた博士は気さくに問いかけてきた。

「君のジョットたちは大層気に入ったようだったので、茶の衣を与えました。君たちも望むならその衣を持っていってよろしい。いちいち私の部屋に着替えに寄られるのでは堪らんからね」

 いひひと笑って、老博士は気前よく言った。

 ギリスはあまり嬉しそうではなかったが、遠慮なく学徒の衣をもらうつもりのようで、元の英雄の服に着替えた後、脇に抱えられるように粗末な麻の衣を畳んで巻き取っていた。

 スィグルは自分があの図書館に出入りすべきなのか、少し悩んだ。

 好奇心は尽きないが、王子が出入りする場所ではない。そこにこっそり忍び込んでも良いものなのか。

 でも、学徒のラリンにはまた来ると言ってしまったし、自分も本当のところを言えば、行きたいのかもしれない。まだ読んだことがない本ばかりだ。そう思うと、気持ちのどこかがうずうずした。

 読まずにいられないだろう。

 時々、ちょっとだけ。自分の自由になる時間に少し訪れるぐらいは、構わないだろう。乗馬に出かけたり、将棋をさしたりして遊ぶ殿下がいるのだし、スィグルも自分が好きなことをする時があっても良いはずだ。

 実を言えば自分は暇なのだ。食事をして風呂に入って寝る以外、やるべき事といったら朝議に列席することぐらいだ。

 あとは自己研鑽のために使って良い時間だ。

 普通はその時に武術を鍛えたり、勉学に勤しむのだが、自分にはそれができない。教える者たちがこちらを無視しているのだ。

 自学するしかないのだから、図書館通いをしたって良いだろう。

 ラリンは他にも面白い本を見せてくれるのかもしれない。祖父の代や、それ以前の祖先たちの治世の、表向きの講義では知りようのないことを。

 そう思うと、背筋がぞくっとした。

 たぶん自分は知りたいのだ。全てを。

 あの図書館のラリンには、尋ねなくてはならないことが、まだ沢山ありそうだ。

「僕もこの衣を持って帰っても良いのですか?」

 老師アザンに確かめると、老人は頷いていた。

「君は賢いですからね。その衣に相応しいでしょう。健闘を祈ります」

 殿下と、そうは呼んでこなかったが、老博士は教授の座から頭礼してきた。

 それに答える礼をして、スィグルは長衣ジュラバの懐にまだ額冠ティアラを持ったまま、博士の部屋を出た。

 その姿が不思議なのか、一緒に部屋を出たギリスがじっと見下ろしてきて、なぜか急にスィグルの額を指で押してきた。

 びっくりして避けたが、ギリスは考え込んだ顔でまだこちらを見ていた。

「何するんだよ。気安く触るな」

「輪っかがないと、お前って埋もれた石の奴みたい」

 ギリスは首を傾げて言った。

「埋もれた石?」

「時々いるんだよ。竜の涙だけど、石が表に出てない奴が。子供の頃だけな。そのうち生えるんだけど、痛いらしい」

「やめてくれよ。痛い話は嫌いなんだ」

「お前がそうだったら驚くけどな。でも、そうだったらお前も本当にジョットみたいだよ。髑髏馬ノルディラーンばつに入れてやる」

 それが良いことのように、ギリスは微笑んで言っていた。

 王族とは付き合いにくいのかもしれない。ギリスは派閥のジョットたちといる方が、気安そうだった。

「それなら僕も気楽なんだけどさ。殿下の義務ともおさらばできる」

「そうだな。でも、それは無いよ。殿下は生まれた時に透視術で検診されてる。もし石があったら王族にはなれないから」

「そうなの?」

 スィグルは知らなかった。自分が生まれた時にそんな選別を受けていたなど。

 竜の涙であることは、王族であるよりも優先されることなのだ。

 もし、もしも自分にも石があったら、兄弟で殺し合う憂き目にも遭わず、ギリスたちのように親しい仲間と暮らせたのかと思うと、胸が苦しかった。

 天使にも会わず、同盟の人質にもならなかっただろうが、念導術で民と玉座に仕え、満足して死ねたのかもしれない。

 それが羨ましいとは思えなかったが、でも、そう思うのは、ただの強がりの嘘かもしれなかった。

「俺はお前が王族でないと困るんだけどさ。でも、お前はつまんないだろ、殿下なんて」

 憐れむようにギリスに言われ、スィグルはムッとした。その通りかもしれないが、言われたくなかった。

「そんなことないよ。お前よりずっとマシさ。部屋だって豪華だろ。お前の居室を見せてみろよ」

 スィグルが偉そうに言うと、ギリスは苦笑していた。

「まあな。では戻りましょうか、殿下。豪華な居室へ」

「付いてくる気か」

「お供します。王族が一人歩きして、何があっても文句を言えない」

 何があるんだと忌々しかったが、スィグルは断らなかった。ギリスの護衛は正直言って心強い。英雄譚ダージに名高い氷の蛇らしいのだから。

 心なしか嬉しく、スィグルは懐にあった額冠ティアラを被り、また王子として英雄を引き連れ、自分たちの居室まで戻った。

 なかなかに遠かった。

 タンジールの王宮は恐ろしく広い。まるで広大な迷宮のようだ。

 それでも道筋を心得るスィグル・レイラスが迷うことはなく、また弟の紋章が描かれている黄金虫こがねむしの大扉に戻ってきた。

 もちろん衛兵が立っている。

 儀仗ぎじょうしたヘス徽章きしょうの者が四人。

 いずれも屈強そうで、心揺らぐこともなさそうな落ち着いた目をしていた。

「ご苦労。弟に会いたい」

 スィグルは用件を伝えた。

 それに一礼して、衛兵は室内に続く伝声管に、第十六王子が来訪した旨を知らせた。

 やがてすぐに、おろおろと戸惑うふうな侍女が戸を開いた。

「殿下……せっかくではございますが、今はスフィル様はお会いになれません。また後ほど……」

「眠ってるのか? それでもいいよ。顔を見たいだけだ」

 スィグルが通せと要求すると、侍女は哀れに青ざめ、困った顔になった。

「ご来客中で……お伺いして参ります」

 侍女は薄紅の透ける袖をひるがえし、部屋の中に消えた。

 弟に来客などあるものだろうか。

 そう思うスィグルの視線を捉えて、ヘスの衛兵が言った。鋭い小声で。

「殿下、誰もこの扉を通っておりませぬ」

 そう聞いて、はっとするスィグルよりも早く、ギリスが扉を開いた。

 衛兵たちも見張りを残し、中に駆け込んでいく。

 咄嗟とっさに動けず、スィグルは遅れて室内に走った。

 扉を通らぬ誰が、どうやってこの中に入れたのか。

「スフィル!」

 青ざめて叫ぶと、室内では衛兵とギリスが、別の衛兵と向き合っていた。

 相手の甲冑にある徽章きしょうアスハだ。

 アスハ

 スィグルはその意味を考え、頭が真っ白になった。

 赤い衛兵は族長に仕える兵だ。

 ヘスの者ですら、たじろいで見えた。

「兄上」

 嬉しげに驚く弟の声が、衛兵たちに遮られた視界の向こう側から呼びかけてきた。

 戸惑う顔の侍女たちの宮廷服に囲まれた、弟の居室の客座には誰もいなかった。

 しかし首座には、弟を膝に乗せた大人の男が座っている。

 それが誰なのか、スィグルには一目で分かったが、息が上がり、言葉が出なかった。

 黒い長衣ジュラバの裾が見えた。王宮の貴人が部屋着に着るような、ありきたりの衣装だ。

「スィグル、間が悪い時に来たものだ」

 黒衣の者が気さくに呼びかけてきた。

 父だ。

 スフィルの部屋の首座に、父リューズが座っていた。

 弟を黒衣の膝に座らせ、なぜか生の肉を挟んだ白いはしを持っている。

 なぜかと思ったが、スィグルや皆の見る前で、スフィルは遠慮なくそのはしから赤い肉をパクリと食った。

 肉食のけだものみたいな、野生味のある仕草だった。まるで、黒雷獣アンサスの子のような。

「こら。スフィル、はしを噛むな。行儀が悪いぞ」

 叱る口調で父リューズ・スィノニムが弟に言った。

 それにケラケラと笑いながら、弟は平気でお行儀悪く肉を噛んでいる。血の滴るような赤身の肉だ。

 スィグルはその光景に吐き気を覚えた。何にかは分からない。生肉を食う弟を見るのは別に初めてではない。

 ヤンファールの時も、王宮に帰った後も、何度となく見た。

 誰かが食わせないと、弟は自分では食事をとらず、飢えて死にそうだった。いつも必死で世話した。森の地下でも、救い出された後も。

 でも僕がトルレッキオにいる間、誰が弟を世話していたのだろうな?

 恐らくは、優しいエル・ジェレフか、親切な侍女たちが。

 そう思うではないか。

「父上……!」

 何かが絶望的な気分で、スィグルは口元を覆って聞いた。吐くか叫ぶかせぬように、自制心が必要だった。

 それに父は面白そうに、ふふふと笑って答えた。

「あいにく今は父ではない。すまないが。俺は侍女だ」

 確かに父は部屋着らしい地味な黒い長衣ジュラバの上に、次女の着る薄物を肩に羽織り、永遠の蛇の冠は着けていなかった。

 代わりに仮面劇で使う美女のめんが、首座の脇に置かれている。

 美しいめんだった。名工の作だろうが、飾り物というよりは、父はそれを被って舞う仮面劇の途中で抜け出してきた役者のように見えた。

 もちろん族長の役柄の。

 それとも侍女の役柄の役者なのか。

 そう思うと、そう見えなくもなかった。仮面劇では、全部を男の役者が面をつけて演じるものだ。

 何も分からなくなり、スィグルは絶句してその光景を眺めた。

 父は困った顔をしていた。

「そう驚くな、息子よ。お前の弟に何か食わせねば、死んでしまうとジェレフが言うからだ」

 奇跡の治癒者が元凶だというふうに、父は悪戯いたずらっぽく教えた。

 ではエル・ジェレフは知っていたのか、これを。でもスィグルには一言も教えてくれなかった。

 皆も知っていたのかもしれない。

 これが最初でないなら、弟の部屋付きの侍女たちも、この来訪を知っていて、スィグルには黙っていたのだ。

 スフィルも。

 いつも父上に会ってたくせに、僕には一言も教えなかった。

 ひどい。

 何かは分からぬ怒りが湧いて、スィグルは拳を握って耐えた。

 父が自分に会いに来てくれたことなどあったか。

 一度だけ、あった。

 人質としてトルレッキオに送られる前、祖先の霊に別れを告げるため、王宮の墓所に一人でいると、そこに父が現れた。

 スィグルがいると知っていたのか、ただの偶然なのかは分からない。

 そんなところに偶然来るはずがないと、父があの時、わざわざ探して会いに来てくれたのだと、自分はずっと思っていた。

 別れを惜しみに来てくれたのだ。弟と半分こではない、自分だけのために。

 それを喜び、でもその特別の待遇を少し後ろめたくも思っていたのに、この弟は何度もこうして父と会っていたのか。気の毒な兄の留守中に、その兄を出し抜いて。

 馬鹿にしていると、スィグルは急に思った。

 僕ももっと父上に会えてもいいはずだ。

 同盟の人質として、重責を果たしてきたのだから、その苦労をもっとねぎらい、再会を喜んでくれても良かったはずだ。

 なぜ戻ったという困り顔で、ただ自重せよと説教するのではなく、つらかったかと聞いて欲しかった。

 そうであれば自分も答えられただろう。

 つらくはなかった。

 故郷の民と、父と、弱った弟を、自分は守りたかったのだ。

 そのために死んでも仕方がないんだと、自分に言い聞かせて耐えた。ずっと何かを耐えてはいたのだ。

 その結果がこれか!

 そう思い、何かが自分の中で激しくぜるような気がしたが、スィグルは黙って耐えた。

 父は癇癪かんしゃくを嫌う。その性質が、王家の何よりの悪癖と、幼い頃からたしなめられてきた。

 だからこらえねばならない。父を失望させる訳にはいかないのだ。

 これには命がかかっている。

 父に見捨てられたら自分は、絹布けんぷを巻かれた墓所の骨になるのだ。

 そう思いたくはなかったが、考えずにいられなかった。いつも。考えずにいられるだろうか。

 本当はただ、大好きだった父上に気に入られたいだけだったはずなのに。

 そんな幼児おさなごの頃はもう、遠くへ過ぎ去っていってしまった。

 それなのに、弟はまだ、その中にいるようだった。でかい図体で父の膝に甘えて、餌を強請ねだっている。

「どうした、腹でも減ったか」

 困ったふうな声で、父は苦笑して聞いてきた。

 スィグルは項垂うなだれて、床を見つめ、ただ頷くしかなかった。

「空腹です、父上」

 叩頭すべきか迷った。

 永遠の蛇は見えないが、家長である父に、まだ挨拶もしていない。

「ではお前もここに来て食うがいい。スィグル・レイラス」

 父はそう言って、まだ立っているスィグルをじっと見ていた。

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