079 虹の谷《エーリシュギル》

「妙な奴だった」

 知識の晶洞からの帰り道、ギリスが独り言のようにしみじみと言った。

 ギリスほどの変人にそう思われるのだから、学坊のラリン余程よほどのことだ。

 スィグルはそれに異論がなかったが、まだどことなく気分が良くなかったせいで、暗く黙り込んだ。

 大図書館の空気に酔ったのかもしれず、圧倒的な数の書物を目にした衝撃で、頭がくらくらした。

 ギリスのジョットたちも多かれ少なかれ同じだったようで、いつもは陽気なはずの彼らもぐったり押し黙っていた。

 特にエル・サリスファーとエル・ジェルダインが。

兄者デン、学徒にあのような事を言わせておいて良いのでしょうか」

 暗く思い詰めた顔で、サリスファーが物置まで戻ったところでギリスに尋ねた。

 ギリスは肩をすくめて答えた。

「学徒はいろんなことを言うさ。考えるのが奴らの仕事だ」

「でも、不敬です。あんな……エル・ディノトリスや太祖の黎明の英雄譚ダージを愚弄するようなこと」

 それが不快だったというように、エル・サリスファーがギリスに文句を言っている。

 英雄たちにはそうだったのだろう。スィグルも同感と言えなくもなかった。

 エル・サリスファーや、その他の少年たちほど、自分は困っていないが、彼らにとっては自分たちの英雄性をゆるがす話に聞こえたのかもしれなかった。

 でもギリスは苦笑のような淡い笑みだった。

「愚弄してない。あいつらは本当のことを言ってるだけだ。確かに太祖は字が読めなかったかもしれない。だから詩人に詠唱させたんだ。理屈は通ってる」

 ギリスは困り顔だったが、大したことでもないように答えた。

 それにサリスファーは不満げだった。

「そうかもしれませんが、えてあげつらうことでしょうか。部族の民を鼓舞し、誇りとするためにあるのが英雄譚ダージです。学徒たちも、部族の始祖にはもっと敬意を払うべきではないですか?」

 いかにも血が熱いように語るサリスファーに、ギリスは面倒そうに小さく頷いてやっている。

「そうだな。そんなことより、お前らちょっと女部屋に走って、昼飯の手配をして来い。念動術師と飯食って、どこでもいいけど、何処かの洞内で魔導訓練だ。お前らも来る?」

「いいんですか⁉︎」

 ギリスが気さくに誘うと、耐えきれなかったのか、一番年下のエル・タイユーンが嬉しそうに叫んだ。

「うるさい、十三歳。遊びじゃないんだ。お前も来て、殿下に雷撃術を見せろ」

「はい!」

 うるさげに言うギリスの命令に、タイユーンは明るく返事をしている。

「殿下が魔導訓練を高覧なさると女どもに伝えろ。歓待しろって。場所が決まったら、殿下の居室に誰かを寄越して報告させろ。それまで俺は殿下と話がある。お前らは遠慮しろ」

 ギリスは六人いるジョットたちを見渡して、きびきびと命令した。誰にともなく。

 しかし、答えたのはエル・サリスファーだった。

「分かりました。エル・フューメンティーナにお伝えします。また後ほど」

 サリスファーは素直に深々と頭礼して、仲間を引き連れて立ち去ってしまった。

 博士の部屋に戻って、奪われた英雄の服に着替えるのだろう。英雄たちの速足はずいぶんと素早かった。

 それをあっという間の出来事として見送り、スィグルはまだ呆然としていた。

 英雄たちがギリスに頭を下げたのか、スィグルにか、その仕草だけでは全く分からなかったが、スィグルには彼らが自分にではなくギリスに服従しているように見えた。

 彼らの忠誠を得るには、自分にはまだ何かが足りないようだ。

 それを内心で反省したものの、悔しかった。それが正直なところだ。

 エル・ギリス無しには、自分は今も、何もできない無力な殿下なのだろう。

「ギリス……エル・フューメンティーナに遣いはもう出したよ。侍女に頼んである」

 言い訳めいた口調で、スィグルはギリスに教えた。自分も何もしていない訳ではないと言いたかったのか。

「そうか。でも、いいよ。あいつらうるさいし。お前もちょっと休めば。戻って爺いに服を返してもらおう」

 ギリスはのんびりと言った。

老師アザンは僕に何を教えたいんだと思う?」

 並んで歩こうとするギリスに、スィグルは歩き出す気になれず尋ねた。

 戻って老師アザンになんと言うのか。

 図書館のラリンは自分達にいろんな古い書物を見せてくれたが、そのどれもが史書と英雄譚ダージの比較だった。

 それが老師アザンが用意させていた書物だったのだろう。

 英雄譚ダージは少しずつだが時代とともに改変されていた。

 初期には病者だと記されていたディノトリスが英雄エルとなり、弟アンフィバロウを導く予言者となり、死してなお王都タンジールを守護する英雄の死霊となって、今も玉座の間ダロワージのどこかにたたずんでいるとうたわれるに至っている。

 ギリスはそれに成り代わる者として、新星に戴冠させる役目を負っているのだろう。

 そのつもりで今もスィグルの側にいるのだ。

 しかし自分にはもう、彼らに与えるべき英雄譚ダージがない。

 それでもギリスは、エル・サリスファー達は、自分に仕えてくれるのだろうか。

 そう思うと、スィグルは不安だった。何をもって彼らの忠誠を得るのか。

 悩んで深刻な顔になるスィグルを、ギリスは淡い笑みで見ていた。

師父アザンがお前に言いたいのはさ、たぶん、英雄譚ダージは嘘だってことだ。本当の話じゃなくていい」

 ギリスが答えを知っているように言った。スィグルの背を押して老師アザンの学房に戻りながら。

「あの爺いがそれを即位前のお前の親父に教えたんだ。英雄譚ダージは作り話だって」

 ギリスはまことしやかに、そう話した。スィグルの耳に。

 驚いてスィグルは間近にギリスを見上げた。

「そんなこと言ったらお前も首を切られるよ、ギリス。叛逆罪で」

「髪を切られるのは嫌だな」

 そう髪を大切にしてる風でもないのに、ギリスは断頭の前に切られるはずの自分の長髪が惜しいようだった。

 図書館のラリンのように、短髪に髪を刈られるのは嫌らしい。

 まあ、誰だってそうだよなとスィグルは納得し、ギリスの話に少し微笑んだ。

 案外、ギリスもまともだ。そう思うと可笑おかしかった。

 それを見て、ギリスも安心したようだった。

「さっき、どうかしたか? あの、虹の谷エーリシュギルがどうとかいう話」

 ふと思い出したふうに、ギリスが尋ねてきた。

 何も聞かないのかと思っていたが、そうもいかないのだろう。

 興味深そうな目で見てくるギリスは幼児のような好奇心の目をしていたが、それがどことなく野生のけだもののようにも見えた。何も深くは考えていないような。

 それに、なんと言ったものか、スィグルは淡い笑みのままで迷った。

「誰にも……言わないでくれる?」

 スィグルは信用できる相手かも分からないギリスに、聞かせる気でいる自分に驚いた。

 弟のスフィルとすら話し合った事のない話だ。思い出したくなかった。

「誰にも言わないほうがいいような話なわけ?」

 ギリスは歩きながら、じっとこちらを見て不思議そうにしている。

 学房の廊下は入り組んでおり、歩く者も時々はいた。歩きながら話すような事ではないのかもしれなかった。

 それでも、自分はずっと誰かに言いたかったのかもしれない。聞いてくれる者がいたら。

 それを聞いても、自分たち兄弟をなじらない者がいたら、話したかったのかも。

 ギリスがそうだというのは、強引すぎる結論だ。人食いレイラス。こいつもそう呼んでる。僕のことを。

 でも、他に誰が、分かってくれるのか。弟のスフィルの他にも、味方が欲しかった。何もかも分かった上で、そばにいてくれる者が。

「分からない。誰に言えばいいのか。僕が森の地下に捕らえられていた時の話だ。そこに他にも人がいたんだ」

 スィグルは小声で話した。意を決した訳でもないのに、自分は話すことにしたようだ。

「お前が食った奴らか」

 ギリスが平気そうに言うので、スィグルは吐きそうになった。

 息を数えて耐えたが、一切思い出したくない記憶だった。

 今でも思い出すたび怖くて、狂いそうな気がする。ただの記憶と何が違うのか分からないが、自分は見てはならぬものを見た気がした。

「いっぱいいるんだ。森の地下に。人が。たぶん、閉じ込められてて、住んでるんじゃない」

「そうなの? 誰が」

 不可解そうにギリスは首を傾げている。

「同族だよ、僕らの」

 王宮の通路を見て歩きながら、スィグルはなるべくゆっくりと息をした。

「お前の他にも部族の虜囚が?」

「そうかもしれない。でも、言葉が通じないんだ、全然」

 スィグルが説明すると、ギリスはしばし目を瞬いていた。

「王宮の外の平民は、大陸公用語が分からないんだよ、スィグル」

「僕は部族の言葉も喋れるよ、ちゃんと。母上の侍女に習った。でも通じなかったんだ、全然」

 なるべく気を落ち着けて、何も思い出さぬように、スィグルは話した。ギリスは黙って聞いていた。考え深げに。

「でもそいつらが、虹の谷エーリシュギルと言ってた気がするんだ。僕のことを西の渓谷オズトゥーシュと呼んでた」

西の渓谷オズトゥーシュだもんな」

 スィグルの容貌の系統のことを、ギリスは言っているのだろう。スィグルはただ頷いた。

 思い返しても、あれは見たことがない顔立ちだった。どの氏族とも似ていない。

 こちらは向こうを知らないが、向こうはこちらの氏族を知っていた。

 それが意味するところが、当時は分からなかった。そんなことを考える余裕などなかったせいだ。

 でも今は、その余裕があった。

 図書館のラリンが言っていたことは、無視できない。

 いにしえのアンフィバロウの末裔として、自分にはもしや、果たすべき役目があったのではないのか。

 それなのに、その、森に残された兄弟たちかもしれない者に、自分が何をしたか。

 皆に知られたくはなかった。

「ごめん……やっぱり思い出せない」

 思い出したくないだけだが、スィグルは嘘をつき、自分から申し出た話を終わりにした。

 ギリスはまだ考えているようだった。

「ラリンに聞いてみれば? それが何なのか。あいつも知りたいだろう。俺も知りたい」

「知ってどうするの」

 どうしていいか分からず、スィグルは尋ねた。どうしたらいいかをギリスが知っているなら教えて欲しい気持ちで。

「お前が見たものが、ラリンの思ってるものと同じなら、俺たちは森の都イル・エレンシオンを占領できる」

「どうして」

 心底驚いて、スィグルはギリスを見上げた。

「俺たちの都だから。同族が住んでる。千年前からだぞ。同じ血を持つ民が暮らす場所が、部族領だ。そうだろ? 天使がそう定めた」

 ギリスも驚いた顔で、でも嬉しそうだった。隠されていた贈り物でも見つけたみたいに。

 それに一切共感できない自分に、スィグルは戸惑った。どう思っていいか分からなかった。

「そうだけど……森エルフも住んでるんだよ?」

「今はな」

 ギリスが微笑んで頷いた。

「でも、証明できる。黎明の英雄譚ダージがあれば。アンフィバロウは兄弟達を森に残して去ったんだ。もしタンジールに無事に着いたら、その後、どうする約束だったと思う?」

「知らないよ、そんなの」

 スィグルは恐ろしくなって、ギリスに答えた。

「俺はさ、もしお前を森に残して偵察に出て、タンジールみたいな良い場所を見つけて落ち着いたら、きっとすぐに迎えに行く。そう約束して行くと思う。自分だけここで幸せになったりはしない。助けに行くよ」

 ギリスは頷いて、そう請け合った。そういう性分なのだろう、ギリスは。

 でも、その話はギリスの勝手な推論に過ぎないのだ。ただの空想だ。証拠はない。

 アンフィバロウは約束したのだろうか。虹の谷エーリシュギルに別れを告げる時、自分たちの都となる麗しのタンジールを見つけて、必ず迎えに来ると。

 そんな話は伝わっていない。

 もし仮にそんな約束があったとしても、自分たちは忘れたのだ。千年も前に。

 もはや森の兄弟たちは消え去り、アンフィバロウが別れを告げた虹の谷エーリシュギルも消えた。

 誰が今もそれを記憶しているだろうか。

「その話はさ……スィグル。時が来るまで黙っておけよ。誰にも」

「お前にもう話した」

 後悔しているのか、自分でも分からない気分で、スィグルは答えた。

「俺は馬鹿だから忘れるよ、安心しろ」

 ギリスが笑って安請け合いした。

 忘れるようには見えなかった。

「まずは即位だ、スィグル。そこから先は戴冠式の後に相談しようぜ。二人で」

 にっこりと屈託のない笑みで、ギリスはそう求めてきた。誰にも話すなと。

 話すべきではなかったかもしれない。自分は一体、何がしたかったのか。

「シェル・マイオスに聞きたい。そういうことがあり得るか、遣いを出して……」

 森にいるはずの友のことを、スィグルは思い出そうとしたが、そのシェル・マイオスにも言っていなかった事だ。向こうからも聞いたことはない。

 聞いてみたらシェルが何と答えるのか、気がかりだった。

 聞かない方が良いことが、この世にはあるのだろうか。友誼を交わした仲にも。

 そんなものはないという気分と、聞いてはならぬ話だという気分の両方がした。

 とにかく、あの友は、もはや遠くにいるのだ。ちょっと行って、軽く尋ねるというのは無理だ。

 聞いてももう、何も答えないかもしれない。

「馬鹿。答えるわけないよ。もし本当にいても、あっちにとっては都合の悪い話だろ」

 淡い笑みで言うギリスの顔は苦笑に見えた。スィグルに呆れているのだ。

「信用できるのは同族だけだ、スィグル。お前がそう思わないのが不思議だよ。その、虹の谷エーリシュギルの連中と会った時どうだった。森の穴蔵では、タンジールよりいい暮らしをしてそうだったか」

 そんなはずはないと、知っている訳でもないだろうに、ギリスはやけに確信めいて尋ねてくる。

 スィグルは歩きながら、首を横に振った。

「いいや。皆、裸だった」

 スィグルが教えると、ギリスが明らかに苦笑した。

「へえ。俺は別に着るものにはこだわらないけど、裸は嫌だぜ。アンフィバロウの砂漠越えに付き従った祖先に感謝しないとな。こんな衣服なりでも、無いと困るんだ」

 学徒の粗末な茶の衣を引っ張って見せ、ギリスが言った。

「なんで服着ろってうるさく言われるのか、やっと分かったぜ」

 ギリスは深く納得したように、独り言めいた言い方をした。

 部族では恥として裸体を嫌う。湯浴みは好み、湯屋ハンマームではてらいなく脱ぐのに、人前で肌を見せるのは恥なのだ。子供の頃から着衣についてはきつくしつけられるし、裸体はなぜか部族への冒涜ぼうとくなのだとされている。

 どんな貧民であっても、部族民の誇りとして衣服は与えられるべきもので、後宮の妃や貴人たちが慈善として、貧しい民にも衣服を施している。

 栄誉ある者は、どんな時でも服を着るのだ。身分や血筋の尊い者ならなおさらだ。立派な衣装を身にまとう権利があり、それが義務でもある。

 自分たちの支配者が見窄みすぼらしいと、民は傷つくのだ。

 それで族長位にいる者やその血族に、民は華麗な衣装を望み、それを与えてきた。時として過剰なまでの奢侈しゃしだが、立派に着飾ることには古来、おそらく意味があったのだ。

「この格好はお前には似合わないな。さっきの英雄みたいなのは案外似合ってたけど。さっさと着替えよう」

 反省したのか、ギリスは自嘲したふうに言った。

 ギリスも全く学徒らしくは見えなかった。

 まだ淡い笑みのまま、王宮の暗い廊下を見つめて歩くギリスの目に、鋭い氷の刃のような野心がある気がする。

 野心があるかと父に問われて、あると答える勇気はなかった自分と比べて、ギリスの顔つきは全然違っているような気がした。

 森の都イル・エレンシオンを占領できると言った時のギリスが見せた、なんとも言えぬ嬉しげな表情。

 餌を見つけた時の鷹みたいだった。

「ギリス……僕は本当に戦いはもう嫌だ。この停戦はお前もあがめてる天使の命令なんだよ」

 スィグルが説明してやると、ギリスは頷いていた。異論はないように。

「そうだな。だったら天使にまた命じてもらえばいい。戦えって」

 そんなことがあり得るか?

 スィグルは苦い顔でギリスを見上げた。

 そんなことがと思うが、自分よりずっと、ギリスの方が、世の中の道理を分かっている気がした。

「嫌だよ」

 スィグルは本心からそう言ったが、ギリスは安心しろというように肩を叩いてきた。

「大丈夫だよ。嫌だったらお前は後陣に引っ込んでればいいんだ。ほとんどの族長はそこから指揮するもんらしい。それもラリンに聞くか、お前の親父に聞けよ。せっかく戦場の名君が親なんだから、息子のお前が戦いの極意を聞いたっていいだろ?」

 スィグルは父にそのような指南を求めたことが無かった。

 そもそも父リューズは常に忙しそうで、父と話すべき者が列を成して待ち構えており、取るに足らぬ幼年の第十六王子とゆっくり話す暇など父にはないのだ。

 ずっとそう思っていた。

 たまさかに父と話せる機会があったが、その時も自分は何となく舞い上がってしまい、何を話したのか後になって悩むような事ばかりだった。

 話せない。父上には何も。

 先日の晩餐の席でも、せっかく父の隣にいたのに、その事実に緊張していたのか、自分からはろくに何も言えなかった。言おうとしても、自分が場違いで奇妙な話をしている気がして、言いながら動揺するのだ。

 結局、自分は父の偉大さに圧倒されるばかりで、遠くから尊敬しているしか能がない、末の序列の息子なのだ。

 そう思うと悔しい気もしたが、自分はずっとそれを受け入れてきた気がする。

 自分が王宮で目立つと、それが良い成果であるほどに、後宮で母が虐められたようだったし、悪い噂であれば尚更なおさら、母は皆に馬鹿にされたようだった。

 だから大人しくしていろと、母はいつも遠回しに頼んできた。

 息子たちの活躍は、母には迷惑なのだ。

 そうではなかったはずだが、母は後宮で族長リューズのちょうを争うには少々、気の弱い深窓の姫君のようであったのだろう。

 父の好みの女ではなかった。

 それも時折、スィグルにはもどかしく思えた。

 母がもっと気の強い美女で、たとえばエル・エレンディラのような、賢く強い女として父に愛されていたら、自分の立場ももっと有利だったのではないかと。

 そう思うのも母に済まない気がして、スィグルはいつもその本音を押し込めていたが、幼い頃から思っていた。

 母上が名君リューズの寵姫ちょうきであれば、自分の道ももっと平らかだっただろう。

 王宮の物語には、かつての寵姫ちょうきたちが族長の愛を幾夜も独占したという甘い耽溺たんできうたもある。

 いわば後宮の英雄譚ダージだ。

 そのようなものに父はこれまで、実際には縁がなかった。

 誰一人深くは愛さない男なのだ。スィグルは父のことを内心そう思っていた。

 だから自分のことも格別な子として愛して欲しいという野望は、もう諦めたのだ。

 父に軍略の指南を求めても、おそらく晩餐の席で兄弟十六人が平等に聞くことになる。

 それでは兄弟たちを利することになるではないか。

「なんで黙ってるの」

 ギリスが困ったように聞いてきた。

 並んで歩きながら、気づけば自分は無言だった。

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