078 脱出行《エクソダス》
ついさっき、ギリスのことを馬鹿正直だと思った割に、自分もそうだった。
ここで引き下がるのでは、納得がいかない。
ラリンの言うことが正しいのだという気は、心のどこかでしたが、それをギリスや、サリスファー達のいる前で認めるのは嫌だった。学徒たちが秘密の洞窟の中で、勝手に話し合えばいいことだ。
そう思ったが、知識の晶洞の制圧には、自分は失敗したのかもしれなかった。
博士はこの結末を聞き、第十六王子には期待しないことにするだろう。彼のとる学説を、自分は支持できない。そう答えたことになるのだ。
「尊き殿下。学房に何をお求めなのでしょうか」
ラリンが急に
もはや今更というのもあるが、どうも学房の者たちは
「新しい、
「必要でしょうか、それが?」
ラリンは冷たく問い返してきた。
それにスィグルはムッとした。どういう意味だ。必要なかったら何だと言うんだ。
戦うために王宮で養われている英雄たちを、これから一体どうしろというのだ。
一体誰が、お前が今いるこの場所を、命懸けで守ったと思うのだ。
この男が、暖かい地下の図書館で古い本を書き写していた時にも、魔法戦士たちは死闘していた。ヤンファール平原で。
ギリスもそうだったはずだ。自分もそうだった。反論せずにいられるだろうか。
「必要だ。ヤンファールの
スィグルは言い終えて、自分が癇癪を起こして怒鳴らなかったのは奇跡だなと思った。
胸がむかむかして、頭はくらくらした。たぶん怒っているのだろうが、怒鳴り散らしてもしょうがない。
ギリスは横目で、いつ怒り出すんだろうかという目で見てきた。そう期待されても怒りにくい。
それでも十分、語気の荒かったスィグルの話に、学徒ラリンは首を傾げ、皮肉な笑みになった。
「もう戦いはないのにですか、尊き殿下。王族の尊さは変わらないでしょう。名君が君臨する限りは。しかし玉座に仕えて奮闘したのは、この千年、戦場で血を流した者たちだけだと
ラリンは撤退する様子がなかった。ただの王宮の捨て子だった奴のくせに。
でも彼の言うことが、間違っていないのはスィグルには分かった。
それで何も言い返せなかったのだ。
スィグルが黙っていると、ラリンはその答えを待たず、勝手に結論した。
「誰も前線で血を流していない今でも、我々は相変わらず奮闘しておりますが、尊き殿下はそれには見向きもされず、あくまでも石のある英雄がお好みか。彼らが命の恩人なのですから致し方ないですよね」
それがいかにも、致し方ない風だったので、スィグルはまたムッとした。
「お前が僕を助けるなら、お前にも
「本当にですか?」
きょとんとして、透ける子供のような肌の若者は言った。
「では、お助けしますので、俺にも
にっこりとして言うラリンは、どうもこちらの話を本気にとったらしい。
「エル・ラリン?」
ギリスが言いにくそうに口に出して確かめていた。
「いや、その名はちょっとどうかと。もうちょっと良い名を考えておきますんで」
ラリンは不本意そうに答えた。
自分の名を気に入っている訳ではないようだった。
「
「恋の歌?」
皆、気になるのか、口々に呟いていた。
「農家の娘に恋をした英雄が、麦の収穫を手伝うんですけど、仕事が終わったら結ばれる約束だったのが、娘が逃げちゃうんですよ。竜の涙は呪われてるから嫌だと言って。英雄は失意のうちに死にます」
「死ぬの!? そんなの聴いて誰が楽しいんだ。駄作だろ」
ギリスが大袈裟に驚いていた。
詩や戯曲の中では、英雄はとにかく死にがちだ。そういうものだと民に思われているのだし、民から見れば実際にそうだったのだろう。短命の者たちだ。
だが当の英雄たちにすれば、そう簡単に殺されてはたまらないだろう。彼らもそこまで
ギリスも、失恋した程度で死ぬようには見えなかった。そもそもギリスが失恋するのかどうか、スィグルは知らないが。
「たぶん本当にあった話なんですよ。農家の娘じゃなく後宮の王女様だったりする別の版もあります」
「英雄が後宮の女と会える訳ないだろ」
ギリスがむきになったように指摘した。
「昔は会えたんです。今ほど後宮と厳しく隔てられてなくて」
「嘘だろ……今と全然違う」
何が悔しいのか、ギリスはがっかりして見えた。
後宮にいるのは僕の父の妃や、僕の姉妹たちだが、お前はそれに何の用があるのかと、スィグルは問わなかった。
そういう
時として極めて不敬な物語だが、父はそれをいちいち禁じてはいない。民を思う名君だからだ。
「
それが残念だというように、ラリンはこちらの一団の顔を見回してきた。
「英雄が竜の涙ばかりになったのも、実は部族史の途中からです。昔は石のない英雄がいました」
「どういうこと?」
ギリスは本当に不思議なように、口元を覆って聞いていた。
「
「墓所に入れるのは英雄と王族だけだ。それと、絵師と」
スィグルは断るつもりで、きっぱりと教えた。
墓所は王家の身内しか入れない場所なのだ。
絵師はその墓所の壁画を描くために立ち入りが許されている。それも特別に許された者のみだ。
「あいにく絵は専門外でして」
にやりとして、ラリンは答えた。
「絵師でもダメだ。勝手にそんなことは調べられない」
「残念です。でもまあ俺も今は、
にやにやと人の悪い笑みのラリンに、ギリスが遠慮なく舌打ちした。
それを見て、スィグルは首を横に振った。
「ダメだ。そんなのは……ラリン」
「先程のご下問にこの
断ろうとするスィグルの言葉を奪って、ラリンが結論を述べてきた。
「
当たり前のことだというように、ラリンはきっぱりと述べた。
それを無言で聞くこちらに、ラリンは満足げに付け足してきた。
「詳しくは専門外ですので、むしろ
「分からない」
スィグルは
あいにく詩には造詣が無かった。
既に
詩人に詩作を命じたことは、スィグルには一度も無かった。
「ご覧になられたら?
「お祖父様の代のもか?」
スィグルは何となくの思いつきで尋ねた。
それにラリンは片眉を上げ、意味ありげに微笑した。
「暗君デールの時代。ありますよ勿論。今すぐは無理ですが、またお越しくださるのであれば、ご用意しておきます」
周りを取り囲む、遥か上まで続く石の書架を手で示し、ラリンは約束した。
その灯火の輝く暗い天井を見上げ、スィグルは悩んだ。
「ここにある本を全部読んでもいいの?」
「ご自由にどうぞ。
さっき開いた華麗な写本を見せてきて、ラリンは後宮の女官たちに新しい布地をすすめる商人のように、スィグルに
人の手が生み出したというのに驚くほかはないような、精緻な飾り文字で、古い
「草の寝床で幾千年……
インクに汚れた指先でラリンが示した文字を見て、スィグルは首を傾げた。
「
「
堪らんだろうという笑顔で、ラリンが教えてきた。
それにスィグルはたじろぎ、ギリスは顔を
なぜ
「
違和感のあるその言葉を小声で繰り返すと、スィグルは舌先に苦い何かを感じる気がした。
ラリンは淡い笑みで、どこか高揚したふうに嬉しげにその話をしている。
「殿下、祖先たちが脱出行に旅立つ時、それに付いていかず、森に居残った同族がいたのではないでしょうか」
「そんなものはいない」
スィグルは答えた。
黎明の
全ての氏族を率いたとは、
でも、そんなものはいない。そんなものは、聞いたことがなかった。
知らない。
だが、知らなくても、自分は思い出さねばならない。
あの、ヤンファールの地下の暗がりで見た、誰だか知らない、長い黒髪をした者たちのことを。
ラリンと同じ、白蠟のような白い肌で、髪はもつれ泥まみれだった。
その恐れる目が、自分と同じ、
あれは、何だった?
スィグルは急に恐ろしくなり、側にいたギリスの腕を取った。
突然、震える手で握られて、ギリスはびっくりしたようだったが、こちらが助けを求めているのは分かったのか、スィグルを自分の後ろに隠してくれた。
何も考えていないのに、恐ろしくて体が震え、血の味がした。
何かの味など、この一年、一切感じたこともなかったのに。甘い味が強く、乾いた舌の上に広がった気がした。
「そんなものはいない! お前に聞きたいのは、そんなことじゃないんだ。聞かれたことだけ答えろ、ラリン」
スィグルは思わず命じる口調で叫び、ギリスの陰に隠れ、腕に
まるで、気の狂った弟のスフィルが、恐れて自分に抱きついてくる時のように。
それを、実におかしなものとして皆見ただろうが、そうしないと立っていられない気がした。
ギリスは驚いた顔だったが、元々ぼうっとした
それでもギリスはこちらの肩を抱き、大丈夫だというように、そっと叩いてきた。
「聞かれたことだけ教えてやれ、ラリン。スィグルには役目がある」
「お役目とは」
ラリンは顔を
「この部族を正しく導くことだ。お前にもその責任があるだろ。英雄になりたいなら、それを肝に
「何を
「玉座への
ギリスは約束するように言った。
「長生きとは。そんなことをあなた方に言われるとは、思いも寄らないことだ」
ムッとしたふうにラリンが答え、ギリスはスィグルを抱きつかせて
「色白のやつは長生きしないんだぜ。知ってるんだろ、学徒は物知りなんだから」
ギリスは珍しく意地悪そうに言ったが、それにはラリンのため息が聞こえただけだった。
ギリスが学房の者を論破できるとは、スィグルには意外だった。自分を
「俺がお前に日の光をやるよ、ラリン。次はお菓子も持ってこようか? 英雄の派閥もなかなかだけど、学房もひどいよな。今日ここでお前が死んでても、誰かが気がつくのはいつだ」
ギリスは気遣うように言ったが、その声は優しくはない気がして、スィグルには彼が怒っているように思えた。
ラリンはその問いかけに残念そうに答えた。
「さあ。誰かが次の飯を運んでくる時だろうか」
諦めたふうに答えるラリンの言葉には力がなかった。
「飯って、学徒って何を食ってるの?」
ギリスは不思議そうに尋ねた。
図書館は広く、あらゆる書物があるようだが、食べ物があるようには見えない。
「
ラリンは洞内の薄暗い隅を指差して、そこでぼんやりと光っているものを自分たちに示した。
おとなしそうな
「光ってるやつだぞ⁉︎ 」
光っていなければいいのか、ギリスはそれが悪のように言っている。
「毒はない」
「そんなもん食うなよ。人の食うもんじゃないだろ」
ギリスは驚いているようだった。
「そんなことない。暖炉で焼けば案外美味いよ」
ラリンはさも美味そうに言った。
「美味いの……?」
ギリスはそれに
そこらの
学徒なら
学徒にしたって、そんなものまで食っていたとは驚きだった。
「ラリン、あんなクソ
ギリスは学徒の異食が耐えられないようで、
誰が何を食おうが別にいいではないかと、スィグルは呆れたが、ギリスはどうも美味いものを食いたい性分のようだった。昨夜の晩餐でも、
スィグルにも、これを食え、あれを食えとうるさく勧めてきて、大食させようとするので困った。
そういう性分なのかもしれなかった。人の空腹まで気になるような。
優しいんだなと、スィグルは意外に思った。ギリスは優しそうには全く見えない。
「
ラリンも困った風に、短髪の頭を
こいつ本当にこの洞内から長く出ていないのではないかと、スィグルには思えた。
「学徒はいつも粗食だから、俺はご馳走は食ったことがない。
にこやかに学徒の若者は言った。
洞内の書に
皆、それぞれの立場で生きているものだ。
スィグルはそれを痛感し、そう考えるうちに少し気が落ち着いた自分に気付いて、はっとした。
なぜかギリスに
王族はそんなことをするべきじゃなかったはずだ。見苦しい。
それで慌てて離れたが、誰も何も言わなかった。
言わないでいてくれたのかもしれなかった。なんとも思わないはずはない。
「大丈夫か?」
その証拠に、ギリスが真顔で確かめてきた。
黙って頷くと、ギリスは何も聞かなかった。
「聞きたいことがあったら、いつでも相談に来るけど、いいよな?」
ギリスがラリンに念押ししていた。
「いいよ。
にっこりとしてラリンは承知した。
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