077 卑しき鼠

 短髪の男はラリンと名乗った。

 そんな名前の者がいるものだろうか。

 渾名あだなかと思えたが、本名だという。あるいは名前がないのだ。

 男は王宮で生まれたのだと話していた。

 誰だか分からぬ母親が学房に子を産み捨て、死なせるのも忍びないと、学徒たちが砂牛の乳をやって育てた。

 よく死なずに育ったと思うが、それも格別の天使の恩寵おんちょうだろうとラリンは話していた。

 饒舌じょうぜつな男だった。

 抜けるように白い、白蠟はくろうのような肌をしており、スィグルはそれが父リューズと似ていると思った。

 部族の者は元服する頃までに地上の陽光を浴びないと、一生このような肌の幼形が残るのだ。

 いつまでも若く幼く見えるが、短命に終わると言われており、不吉がられるため、誰しも一生に一度は陽光を浴びに行く。

 タンジールに生まれると、危険な地上を恐れるようになるが、それでもほんの小半刻こはんときも外の陽を浴びれば良いだけなのだ。その光によって体内の変態が進み、さなぎちょうになるように皆、大人になる。そう言われている。

 実際にははねが生えてくる訳ではなく、日焼けして皮膚がけ、身体中がかゆくて熱くて十日ほど苦しむだけだが、そうしないと黒エルフは大人になれないのだ。仕方がない。

 ラリンは地下の図書館で本を読むうちに、気づいたら元服の年齢を超えており、そのまま機をいっして今に至っているらしい。

 図書館からほとんど出たことがないのだという。

 それも信じがたい話だが、ラリンの仕事はこの洞内の調湿のために暖炉の火を絶やさぬようにすることと、古びた書物の写本を作ることだった。

 ラリンは毎日ずっと本を読み、それを新しい紙に書き写して、時折、暖炉に燃料をくべる。それが日課で、一日の全てだという。

 よくしゃべるのは寂しいからだとスィグルには思えたが、自分の素性を話しているラリンは全く孤独そうには見えなかった。

「王宮で生まれるのは王族だけかと思ってた」

 ギリスがそう言うと、ラリンはニヤニヤしていた。

「馬鹿だな、お前。男と女がいれば、どこでも子は生まれるんだよ。俺の母親は女官かもしれないし、女英雄かもしれないが、とにかく普通には産めないから俺を捨てたんだろう。案外、アンフィバロウの血筋かも?」

 得意げに笑って言うラリンの話に、スィグルは驚いて吹き出しそうになった。

 第何番目の王子のつもりだ。見たところ第一王子よりも年上だが、よもや父の長子ちょうしかたる者がいたとは。

「なんで?」

 ギリスがぽかんとしてラリンに聞き返していた。

「なんでって、お前、それぐらい分かれよ。族長は十二人もきさきがいて、その上、女英雄ともねんごろなんだぜ。落としだねの一人や二人いるさ」

 まことしやかにラリンは言ったが、スィグルはどこから怒っていいのか分からなかった。

「それがお前だっていうの?」

 ギリスが唖然として聞いている。

 こんな奴の悪い冗談にまともに取り合うのは馬鹿だ。

 ギリス以外の者は、なんとも言えない顔で、呆然と聞いていた。

 ラリンに運べと言われた本を、壁面の書架から洞内の中央にある長卓に運び出しながら。

「次の族長は俺かも?」

「尊き殿下」

 ギリスはどこまで本気なのか、ラリンと本を運びながら、うやうやしく頭を垂れてやっていた。

 それにクスクスとラリンは笑った。

「冗談だよ、そんな顔するな。そうとでも思わないと、つまんないだろ。お前はどこから来たんだ。親は?」

 ラリンは気さくにギリスに尋ねた。

「いない。俺も赤ん坊の時に捨てられてる」

 ギリスが真顔で答えたのは本当の事だった。聞いている弟たちも、そうだろうなという軽い驚きの表情だった。

「こいつらも皆そうだ」

 ギリスがジョットたちを視線で示して教えると、ラリンは小さく頷いていた。

「よく頑張って王宮まで来たよな。歓迎する。名前は?」

「ギリス」

 ギリスが教えると、ラリンは吹き出して笑った。

「ヤンファールの氷の蛇かよ! 良い名だな」

 ラリンはそれがエル・ギリス本人とは思っていないようで、遠慮なく笑っていた。

師父アザンは俺の頭がいいって。いつも目をかけてくださる。お前らを手伝うように命じられてる。それで、何が知りたい?」

 ラリンはいかにも何でも知っているかのように聞いてきた。

「ここって、知識の晶洞しょうどうか?」

 ギリスが尋ねた。ラリンは意地悪そうに首を傾げた。

「どうかな。その一部ではある。ここにあるのは閲覧用の写本が主だ」

「爺いにだまされた」

 ギリスは確信めいて言った。

 ラリンは笑っていた。

「原本に触れていいのは博士だけだ。見たいならお前も研鑽けんさんを積んで博士になればいい」

「そんな爺いになるまで生きてられないし、あいにく馬鹿だから無理だ」

 ギリスは正直に言っていたのだろうが、ラリンは冗談だと思ったようで、爆笑していた。

「おいおい、悲しいこと言うなよ兄弟。王宮まで上り詰めたんだろ。末は博士だ。気長に頑張れ。その歳でここへ来たんだ。お前も俺も、捨てたもんじゃない」

 にっこりとして、ラリンはひどくギリスを気に入った様子だった。

 ギリスがこうも人に取り入るのが上手いとは、スィグルはただ見ているだけでも恐ろしかった。

 こうやって自分もおとしいれられているのだろうか。この、氷の蛇に?

 そう思って見つめていると、長机の側でラリンと並んでいたギリスが急にこちらを見て、腕を伸ばしてきた。

 それに肩を掴まれ、スィグルは蹌踉よろめきながら年長の二人の側に引き寄せられた。

「こいつは俺の弟分ジョットだ。すごく頭がいいんだ。こいつに何でも教えてやってくれ、ラリン。礼はする」

 ギリスがスィグルと引き合わせて頼むと、ラリンは灰緑の蛇眼じゃがんで、こちらを見てきた。

「坊や、名前は」

「スィグルだ」

 ギリスがさっさとそう答えてしまった。

 何で本名を言うのだ。スィグルは驚いてギリスを見上げた。

「殿下みたいな名だな……」

 ラリンは真顔でそう聞いてきた。

「そうだろ。尊き殿下。礼は何がいい」

 ギリスは淡い笑みで図書館の学徒に尋ねた。

 それにラリンは微かに不快な顔をした。

「何が知りたいんだ」

「爺いが黎明の英雄譚ダージは嘘だと言うんだ。お前はどう思う? ここにその、原本はあるか」

「どの原本だ」

「草の寝床で幾千年」

脱出行エクソダスか」

 ため息をついて、ラリンは長机にあった分厚い書物を開いた。

 たまたまそこにあったのではないだろう。そんなものが偶然、卓上に運ばれているわけがない。この無数の書物がある図書館の中では、そんなことが起きる確率はごく僅かだ。

 老博士の命令で、前もって用意されていたと思うのが妥当だ。

 芝居がかった大仰おおぎょうな人だが、意図があり、こちらに何か言いたいことがあったのかもしれない。

 スィグルに、父に教えたのと同じことを教えると言っていた。

 老師はかつて、殿下だった父リューズ・スィノニムに何を教えたのか、それをここで自分も聞くしかなかった。

 ラリンは開いた本のページを指し示して、誰にともなく語り出した。

脱出行エクソダスには幾つかの版がある。学房にある中でもっとも古い記録は太祖の代の終わり頃に書き記されたもので、おそらくそれ以前には口伝しかなかったんだろう。記録は詩人からの伝聞の形式をとっている」

 本のページに記された文字はまだ新しいインクで書かれており、とてもそんな古いものには見えない。

 そういう目でスィグルが疑わしく見ると、ラリンはこちらの顔を覗き込んできた。

「俺が写した写本だ。これの元になったのは、原本からの一代目の写本で、こいつはその孫だ。記録の守護天使サフリア・ヴィジュレに誓って言うが、一言一句、たがいないものだ。信じろ、尊き殿下」

 そう言われたら頷くしかない。

 底知れない気迫がラリンの目にあり、スィグルはそれに気圧けおされていた。

「俺は博士から古代写本の写しを任されてる。終わるまでここを出ない誓いを立ててる」

 ラリンは自分の短髪を掻き上げて、少し忌々いまいましそうに言った。

 まさか博士に髪を切られたのではないだろうなと思ったが、誰が切ったにせよ、その髪がまた伸びるまで、王宮には戻りにくいだろう。衛兵に、逃げた死刑囚かと思われる。

「ゆっくり読みたいから書き写していってもいいか?」

 ギリスは、構わないだろうという声でラリンに聞いた。

「ダメだ。この書架から持ち出せるのは記憶だけだ」

 ラリンはギリスの頭を指でつついて教えた。

 それが頭布ごしに竜の涙に触れたのではなくて良かったと、スィグルはひやりとした。

 英雄たちの石に触れるのは、非礼なことだ。そこは彼らには、最も触られたくない場所だからだ。

 無言で待っていたサリスファー達が、ムッとしたのが分かった。

 知らぬこととはいえ、無礼だと思ったのだろう。

「憶えていくがいいよ。お前らが本当に学房の者に匹敵する天才だと言うならな」

 どうせ無理だと思っているのか、ラリンは挑むような口調だった。

 はじめはギリスが好きなようだったのに、自分がついてきたせいだと、スィグルはそれを少し悔やんだ。

 ギリスも、名前ぐらいは適当な嘘を言えばいいのに、馬鹿正直だった。

 本当に馬鹿なんじゃないのかと、スィグルは心配して、学徒と話す射手を見上げた。

 ギリスは真面目な顔で、図書館のねずみを説得する口調だった。

「ラリン。協力してくれ。爺さんがエル・ディノトリスが未来視じゃないって言うんだよ。どう思う?」

「博士はその説をとっておられる。ディノトリスは魔法戦士じゃなかった」

「竜の涙なのに?」

 不可解そうに顔をしかめるギリスに、ラリンは困ったように苦笑していた。

「魔法戦士はいなかったんだ。ギリス。その頃、部族に英雄エルはいなかった。ただのディノトリスだ。初期のうたにはそうある」

「初期のうた……」

 ギリスは思案するように、そう繰り返して言った。ラリンはギリスの顔をじっと見ていた。

「そうだよ。ディノトリスが英雄エルディノトリスと記されるようになったのは後の世になってからだ。太祖の兄は病者で、ドラグーンに呪われていたと、脱出行エクソダスにはある。ただの病人だったんだ」

「そんなはずはない」

 ギリスはムッとしたように、ひどく冷たい声で言った。

「ギリス」

 すぐ隣にいるギリスの身が強張っている気がして、スィグルは思わず呼びかけた。

「博士はその話を僕らにして、何を言いたかったんだろうね?」

 ギリスが怒っている気がして、スィグルはなだめる口調になった。

 でもギリスは怒ることも、恐れることもないのだと言っていた。石のせいで、そういう感情は自分にはないのだと。

 でもそんな者が本当にいるのか、スィグルは信じられなかった。

 ギリスも何かは感じているはずだ。人並みの感情ではなくても。

 側にいると、その些細ささいな心の動きが感じられる気がして、スィグルは落ち着かない気分だった。

 たとえ黎明の英雄譚ダージに本当はそうまれていたのだとしても、祖先達は書き換えたのだ。エル・ディノトリスに英雄の称号を与えた。それを無視するべきではない。

 黎明のディノトリスは、部族史に最初に名を記された竜の涙で、今に続く全ての英雄たちの最初の一人なのだ。

 それがただの呪われた病者であって良いはずがない。

 彼は、魔法を持っていたはずだ。竜の涙ならば、その石の呪いと引き換えに。

 それを使わなかったはずはない。もちろん使っただろう。だから千里眼のディノトリスと呼ばれていたのだ。

 そう思うほうが、スィグルには自然に思えた。

 でももう、確かめようがないことだ。黎明の記録にはどうあれ、それ自体の信憑性しんぴょうせいはもう確かめようがない。

「悪いんだけど、ラリン、僕らはディノトリスが何であったかには興味がないんだ。彼は英雄だった。それは今も昔も変わらない。彼はアンフィバロウを導き、この部族を率いて砂漠越えをした。それは事実なんだろ、ラリン」

 スィグルは黙っているギリスの代わりに、学徒の青年に尋ねた。

「そうだよ。坊や。そうでなければ俺たちが今、ここに居るはずはない」

「いつから英雄だと書いてあるの?」

 そこが重要な気がして、スィグルは尋ねた。ラリンは目を細めてスィグルを見つめた。

「部族の最初の英雄は、もう少し後の世に現れている。森の者たちとの戦いが始まった頃だ。太祖アンフィバロウは正式な族長ではなく、七代後の族長エルメインが神殿に巡礼して族長に叙任され、冠を受けた。その時に始まってる。族長エルメインは竜の涙たちを従軍させ、森の軍団の守護生物トゥラシェを焼かせた。火炎術で。守護生物トゥラシェは火を恐れ逃げ帰ったと記録にある。その時に戦った竜の涙たちが、最初の魔法戦士であり、英雄エルなんだ。でも全員がその戦いで死んだ」

「そんなことはいいんだ。魔法戦士が敵を撃退したんだ。そうだろ?」

 スィグルは遠慮なく話すラリンに、話の筋道を示した。

 英雄エルたちのいる前で、たとえ真実でも、平気でしてほしい話ではなかった。

「そうだ。勝ち戦だった。その代から英雄譚ダージうたわれるようになった。戦った竜の涙のための、葬送のうたとして。今もそうだろう? 死んだ竜の涙が幽鬼にならないように、魂をなだめるうただ」

「英傑の勇姿を讃えるうただ」

 ラリンの言うことは嘘ではなかったが、とにかく言って欲しくなかった。

 反論するスィグルを見て、ラリンはしばらく押し黙った。

 英雄たちも何も言わず、ギリスも黙っていた。

 燃える暖炉の炎の音が、やけにはっきり聞こえるほどだった。

「坊や。君は学徒に向いてない。冷静な観点ではない。あまりにも予断がある」

「学徒じゃないからだろうね」

 嘘をつくのが嫌で、スィグルは正直に言った。

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