076 知識の晶洞

「早いな……」

 ギリスは感心したように小さく呻いた。

「それで、どうだって?」

「素数の刻まれた石戸を開くようにと言っています」

「素数?」

 ギリスが顔をしかめて答えた。

「2、3、5、7、11、13……ですよ、兄者デン

 気を利かせたふうに、エル・サリスファーが小声でギリスに伝えていた。

「知ってるよ」

 ギリスは驚いた顔でジョットのお節介に答えたが、スィグルもびっくりしていた。知ってるのかと。

 そりゃ知ってるか。英雄たちも元服後は学問を習っているらしい。ギリスは自分たちより年上なのだし、先を歩いているはずなのだ。

 でもそんな気配が全くしない。ギリスが聡明なのか馬鹿なのか、全く見当もつかなかった。

 やがて、あっという間に通路から二人が戻ってきた。行く時よりも、戻る時のほうが早い。

 ギリスはその無事な様子に納得したらしく、戻ったばかりのエル・ジェルダインとエル・タイユーンに、もう一度先に立って案内しろと命じた。二人はそれに頷くだけで、逆らう気配もなかった。

「よし、行くぞ。まず俺とサリス。それからスィグル、お前は俺について来い。側を離れるなよ」

 ギリスは真面目に言っているのだろうが、なぜ命令するのか、正直言って分からなかった。

 普通ここは自分が指揮するのではないのかとスィグルは思った。王族なのだから?

 でもギリスは自分が指示するのを、微塵みじんも疑問に思っていないようだ。

 魔法戦士たちはギリスのジョットなのだし、そういうものなのだろうか。

 そう思い、訳もわからずスィグルはギリスを頼ってしまった。

 ギリスは殿しんがりの者たちに指示を伝えると、サリスファーを連れて、さっさと壁の穴に潜ってしまったし、その消える姿を追うようにして、スィグルは自分も付いていくしかなかったのだ。

 暗くて狭い通路が薄気味悪かった。

 しかも灯火なく暗視で行くというので、かつて弟のスフィルと彷徨さまよった地下の穴蔵が思い出され、嫌な気分だった。

 でも今さら、怖くて無理だとは言えない。特にこの同い年の連中には、言えない気がした。

 僕にも面子めんつがある。

 王子としてというより、もはや男子としての名誉が……。

 そう思うが、暗い穴を屈んで潜ると最高に怖くなり、壁を抜けた向こう側の、すぐ頭上にいびつな天井がある、掘りっぱなしの狭い坑道のような場所で、スィグルは立ち止まった。

 壁穴のそばしか見えないが、すぐに目が慣れ暗視に切り替わるはずだ。

「ギリス……どこ」

 暗闇の中に人がいる気配がしたが、どれがギリスか分からない。

 同い年の英雄たちを頼るのはさすがに格好がつかないが、射手を頼っても良いはずだった。

 ギリスは年上なのだし、なんと言ってもヤンファールの氷の蛇だ。

 一度命を救われてるし、二度も三度も同じだろう。

 そう思って情けなくなり、スィグルは自分のまとう茶の衣のすそを握って耐えた。

 目が慣れるまで。

 暗視には自信がある。

 期待通り、スィグルの目はすぐに光のある視界を諦め、暗く無彩色な輪郭線だけの世界を見せてきた。

 部族の血に眠る暗視能力は、個人差があるが、鍛えることもできる。

 工人たちは子供の頃に、真っ暗闇の中で修行をし、暗視能力を鍛えると言っていた。

 望んだ訳ではないが、スィグルも虜囚になったせいで、幾月も陽のささない真の暗闇の中にいた。

 そのせいで暗闇に目がきくのだ。

 ギリスはまだ見えないのか、探す目でこちらを見ていたが、スィグルを見つけてはいない顔だった。

 その手が伸びてきて、スィグルの茶の衣のえりを掴んだ。

「大丈夫か? 見える?」

 気遣う様子でギリスが尋ねてきた。

「見えるけど、文字までは見えないかもしれないよ」

 ギリスの腕を掴み返して、スィグルはちょっとほっとした。

 いつかの森の地下でも、弟のスフィルと手を繋いで彷徨さまよっていた。

 もしも別々にはぐれたら、生きていけない気がして、お互いを求めていたのだ。

 誰でもいい、自分の側にいる誰かとして。

 ギリスには、弟のスフィルほどの慕わしさはなかったが、でも他に誰を頼れるというのか。

 そこまでして誰かを頼りたい自分に情けなくなって、スィグルは手を離した。

 居場所を確かめた後は、ギリスにも暗視が整ったのか、もう掴んではこなかった。

 他の皆も、暗闇の中で、もう見えているような視線だった。

 闇に目の利かない者は、暗いと盲目の目つきになるものだ。

 英雄たちは暗視も鍛えられているらしい。皆、闇の中でも目が良かった。

「文字は光って見えました。殿下。ご心配には及びません」

 先頭にいるジェルダインが、安心しろという声で呼びかけてきた。

 列の先を見ると、スィグルはジェルダインと目が合った。その顔が頷き、微笑んでいるのに、スィグルは励まされた。

 暗く狭い通路に押し込められていても、この人数で身を寄せ合っていると、安心できた。

 大丈夫だ。ここは王宮の中だ。図書館に行くだけだ。そう自分に言い聞かせて、スィグルは深呼吸した。

「わかった。行こう」

 スィグルがそう言うと、列が進み始めた。皆、スィグルを待っていたのかもしれなかった。

 情けないなと思い、スィグルは自分にがっかりしたが、確かに自分は震える息だった。一人だけこの暗い通路で凍えているみたいに。

 道は迷路になっていた。

 先に透視術でたジェルダインには、通路の構造が見えたのだろうが、スィグルには最初の分かれ道にきた時、どちらが正しい道かなど、全く分からなかった。

 道はどちらも石戸で閉じてあり、押すと戸は開くようだった。

 扉にはどちらも、光る地衣類が塗られた数字の浮き彫りがあった。文字が光って見える。

 双方の扉に、数字が書かれていて、片方には美しい飾り文字で、賢き者はこの扉を開くべしと記されていた。

 開いてはならぬらしいほうの扉の数字は、3571だった。素数だ。

 開くべき扉の数字は3570。素数ではない。

「賢き者の扉の奥は行き止まりです。扉に仕掛けがあるので、たぶん向こう側からは開きません」

 中が透視術でえているジェルダインが教えてくれた。

「間違えると閉じ込められちゃうの?」

 ギリスが困った声で尋ねていた。

「間違えなければ大丈夫です。正しい扉には全部、素数が書いてあるので、迷ったりしません」

 確かに、それさえ知っていれば間違いようのない単純な構造と言えた。迷路というよりは、時々行き止まりの枝道がある一本道だ。

 間違えなければ良いだけだ。

 そう思うと、スィグルはなぜか、ほっとした。正しい答えのある道の、なんと心安らかなことか。

「閉じ込められたらどうなるの、これ? 誰か助けに来るのか?」

 ギリスは素数の扉を通り抜けるジェルダインにしつこく聞いている。

「わかりませんけど、長時間になると危ないと思います。行き止まりには換気口がないので、この人数だと息が詰まって死ぬかもしれません」

「危ないだろ、それ」

 ギリスが自分の喉に触れて、驚いた顔をしているのが見え、スィグルはその様子が可笑おかしくなった。

「正しい通路は大丈夫です。息ができるか、煙管きせるに火を灯して確認しました」

 ジェルダインも可笑おかしいのか、楽しげに笑って答えてきた。

 次の分かれ道の二枚の扉には、ただ21451と、21457とだけ書かれていた。前者が素数だ。

「馬鹿の扉を教えてくれるのは一枚目だけなのか? なんでだよ?」

 ギリスがまた驚いた声で聞いた。

 たぶんジェルダインに聞いているのだろうが、まるで学房に尋ねているようだった。

「全部教えちゃったらわなになりませんよ、兄者デン

 サリスファーが困った声で答えている。

「あいつら、馬鹿は死ねって思ってるのか。酷い連中だ」

 ぶつぶつとギリスは学房の者たちに悪態をつき、正しい道を進んでいった。

 扉には毎回違う素数が記されていて、その数字は光って見えた。

 この仕組みを知っている学房の者たちには、おそらく、ただ進めばよいだけの安全な道なのだろう。

 さっきの案内役は、スィグル達が本当にこの中を見る資格があるなら、道を知っていると思ったのだ。そうでないなら、中に案内してはならない相手だったのだろう。

 もしかしたら、入り口までの案内をするよう、師父アザンに命じられたのかもしれなかった。

 老師はエル・ジェルダインの師でもあったのだから、こちらに透視術師がいることは最初からご存知だったのだ。

 彼にとっては、この息が詰まる危険な迷路が、ただの安全な一本道であることも。

 酷いな、確かにと、スィグルは可笑おかしくなって、また笑った。なんだか楽しい。こんな暗い通路にいても、信頼できる仲間がいて、それを頼れるなら、僕は呑気にへらへら笑っていられるわけだ。

 父上がいつも玉座でにこにこしているのも、案外、そういうわけなのかもしれなかった。

 英雄がたった七人いるだけで、こんなに頼れるのだから、それが何百人もいる父上は、さぞお心安らかなのだろうな。

 そう思うと、スィグルは父が羨ましかった。

 あの、広く絢爛けんらん玉座の間ダロワージを満たす、廷臣の群れ。あれこそがタンジールの財宝だ。

 いつか自分にも、それに手が届くことがあるのだろうか。

 そう思うが、それはあまりにも巨大な宝で、スィグルは今すぐ側にいる七人だけでも、もう十分に満足だった。

 自分はその程度の器なのかもしれない。何千という廷臣に君臨できるような覚悟も野心も、まだないのだ。

 晩餐の席で、そういえば父が訊いていた。玉座への野心はあるのかと。

 そんなものはないと、下問に恐れて咄嗟とっさに答えたが、思えばあれは正直な答えだった。

 晩餐の高段から眺めた大勢の英雄や将軍、官僚たちの姿を見ても、それを全部欲しいとは、今はまだ思えない。何に使えばよいのかも、想像がつかなかった。その全員に号令する未来の自分のことなどは。

 いつかは自分にも、その必要が備わるのだろうか。この部族領を支配するために、お前たちが必要だと、皆に求める気持ちが芽生えるのか。

 僕と一緒にいて欲しい。そういう強い執着を、スィグルは急に感じた。

 エル・ギリスに。エル・ジェルダインにも。いつも側にいて、僕を助けて欲しい。

 本当のことを言えば、昨晩、エル・フューメンティーナにも少し感じたのだ。

 でも彼女が可愛いからかと思った。可憐な容姿で、どこか優しげにも見え、それでいて頼りがいがあった。

 念動術を教えると言っていた。

 教えてよ。

 強くしてくれ。

 そう願ったが、女にものを習うなど、不名誉かと。

 それに守られているのも、格好がつかない気がして、彼女には何も求めるべきではないかと、晩餐の夜には思ったのだ。

 こっちが彼女たちを守るべきかと。

 でも力量の差がありすぎる。フューメも、彼女の小さい妹たちでさえ、たぶん僕より強いのだ。

 それを従えるには、一体、どうすればいいのか。

 もう頼むしかないではないか。いつも側にいて、守ってくれないか。玉座の君を。この部族のために。

 父もそう、彼らに求めたのだろうか。この都を滅亡から救うため、皆に高貴なる族長冠の頭を下げたのか。

 それが自分にもできるのかと、スィグルは不安になった。

 生まれついての王族暮らして、ずいぶん頭が高いが、エル・ギリスに、エル・ジェルダインに、自分は叩頭できるか。僕を救ってくれ。あの玉座に座らせて欲しいと、彼らに心から頼めるだろうか。

 そう頼んで、彼らが頷くような器か。この僕は。

 それを考えると、到底そうだとは思えず、身が震える気がした。

 大人しく絹布けんぷたまわり死ぬほうが、ずっと簡単に思えた。

 僕は玉座に相応ふさわしくない。そう思うほうが、ずっと簡単だ。彼らを従え、部族を率いて生きていくより。

 あの晩餐の席の皆が、自分にぬかずきあがめる光景が、想像もつかず恐ろしい。

 皆が自分を頼り、支配者としてあがめる時に、自分はその一人一人を守れるだろうか。

 詩人が詠う英雄譚ダージの中で散ろうとする、たった一人の英雄にすら、今はまだ気絶しそうになるのに。

「ギリス……」

 道の長さにくらくらしてきて、スィグルは思わず、射手の名を呼んだ。

 どうして呼んだのか、自分でもよく分からなかった。

 洞内に風が吹いている。奥の扉から、風の流れが。

 その新鮮な空気を感じて、スィグルは闇の中で光って見える扉の輪郭を見た。

 その扉は石戸ではなく木製で、立派な黒檀で作られており、金の鍵穴があった。

 おそらく知識の晶洞しょうどうなのだろう。その扉で正しいのか、一枚しかない戸口でも、スィグルは不安だった。

 開いた先が真っ暗闇の大穴かもしれないではないか。

「鍵を開けてみろ。代わりにやるか?」

 ギリスが心配げにこちらを見ていた。

「いや……自分でやるよ。でも一緒にいてくれない?」

 スィグルはギリスに頼んだ。それに英雄はあっさり頷いていた。

「いいよ」

 ギリスは扉の鍵穴に、老師にもらった鍵を差し込むスィグルの様子を、横に立って見ていた。

 扉は本当にその鍵で閉じられていたようで、がちゃりと機構が回る音がして、錠が開く手応えがあった。

「中は大きな洞窟です、殿下。とても大きい、縦坑の底に出ます」

 扉を開く前から、透視術師のエル・ジェルダインが教えてきた。

 彼が微笑んでいたので、中には良いものが待っているように思えた。

 スィグルが重たい扉を押し開くと、暖かな空気が流れこんできた。

 それに頬を撫でられ、まぶしい洞内の光に目を潰されながら、スィグルは見上げた。知識の晶洞しょうどうを。

 見上げるような高さの大洞窟の壁の全部に、石を掘った書棚がうすたかく作られ、その棚を無数の書物が埋めていた。

 錦の巻物や、束に装丁された本が、絶壁とも思える壁を、遠く見上げるほどの高さの天井まで埋めている。

 ところどころに、天然の水晶の晶洞しょうどうを掘り当てたらしい、大きな白い結晶が突き出し、その透明な六角柱の先端が、吊るされた篝火かがりびきらめいていた。

 その絢爛けんらんな自然の岩床に埋もれた本棚には、人一人が生涯をかけてもきっと読破しきれぬ数の書物が集められているのだ。

「うわぁ……」

 絶望したのか、高揚したのかも分からない声で、エル・サリスファーが洞内を見上げていた。

 一緒にやってきた者たちは、皆、唖然としていた。

 おそらく自分もそうだったのだろうが、何となく気持ちが呆然として、この圧倒的な数の書物に押しつぶされそうだった。

 足がよろめく気がして、スィグルは側にいたエル・ギリスの袖を掴んだ。

「読めないよ……こんなに沢山は」

 書棚の一つ一つにも一年はかかる。それが幾つも数知れず、おそらく何階層分もあるだろう高さの、吹き抜けの天井まで積まれているのだから、この図書館の蔵書の読破は、自分が生きているうちにはできないのだ。

 そう思うと絶望感しかない。

 これを全部、どうやって制圧するというのか。

「大丈夫だよ、スィグル。読んでる奴らに聞けばいい」

 ギリスは至極しごくあっさりと言った。

「お前は別に、馬鹿でもいいんだよ」

 ギリスはにっこりとして見えたが、スィグルは傷ついた。僕は馬鹿なのか。お前はそう思ってたのか。

 酷い。そんなこと、生まれてから一度だって、誰にも言われたことないのに。

 そう思い、スィグルは自分が本当に足元に崩れ落ちそうな気がしたが、そんな訳にはいかなかった。

 ここで気絶している訳には。

「ようこそ。早かったですね。天才の皆さん」

 洞内にいたらしい茶の衣の者が一人、出迎えてきた。

 背は高く見えたが、歳の頃はギリスより少し年上なだけのようだった。

 その者の髪が短かったので、スィグルは度肝を抜かれた。ギリスですら驚いたようだった。

「髪の毛どうしたんだよ、お前。何かやらかして切られたのか?」

 ギリスが指差して、その者に聞いた。

 皆、そう思っていたが、まさか聞くとは思わなかった。

 それに相手は気を悪くしたふうもなく、短い黒髪を自分で撫でて、あははと笑った。

「切ったんだ。洗うのが面倒で。どうせ誰にも会わない」

 そう言うが、自分たちと今、会っている。

 短髪は死刑囚の髪型だ。首を切る前に髪を切られる。

 だから部族の幽鬼には、刑死した短髪の首を抱えて彷徨さまよう者がいるという。

 怖い。それがスィグルの率直な感想だった。その茶の衣の者への。

 これまで、いろんな酷い目には合ったが、スィグルはまだ髪を切られたことはなかった。

 その分、たぶんまだ幸せだったのだ。

 それなのに自分で自分の長髪を切る奴がいるなんて!

「頭おかしいんだな、お前」

 ギリスがしみじみとそう断じた。

 相手は微笑むだけで、それに反論しなかった。

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