074 学徒の衣
博士は
「嫌なら今日は鍵を置いて居室にお戻りください。学房の者しか入れぬ場所です」
博士は残念そうに言った。
ここまで教えておいて、見せないつもりなのか、その知識の
「俺らは行っていいわけ?」
ギリスは
「構わんよ。君らも英雄でさえなければ、きっと学房で良い成果を収めただろうにな。特に、エル・ジェルダイン、君は」
博士は惜しむように言って、ずっと大人しく立っていた影の薄い一人を
「とんでもないことです、
名指しされた少年は、仲間に見つめられて気まずげに答えていた。
その控えめだが思慮深そうな態度に、スィグルはしばらく彼を見たが、学房の粗末な衣装を手に握っている彼は、昨夜の晩餐で挨拶してきた時とはまるで別人のようだった。
昨夜は英雄のように見えた。
エル・ジェルダイン。透視術師だ。確か。
殿下に忠誠を誓うと言っていた。
英雄たちの忠誠とは、死だ。スィグルにはそう思えた。
命じられたら死闘するという約束なのだ。
昨夜初めて会ったばかりで、お互い何も知らないのに、ジェルダインはもう死ぬ気なのだ。僕のために?
それに、なんとも言えない違和感があり、スィグルは魔法戦士たちの一団を振り返って見た。
別に、この中の誰かに死んで欲しいとは思わない。エル・ジェルダインにも、誰にも。
そんなの、好き勝手に誓われても困る。
彼らにも、好きに生きる権利があったんじゃないのか。
英雄になる以外の道が。
「まあ天使がお決めになったことだ。君らの宿命については致し方ないが。学房の掟では、聡明なる者には分け隔てなく書を与えよとある。君たちは聡明だからいいだろう。もちろん、嫌なら見なくていいんだが?」
博士は意向を問うような目で、ギリスとその
「帰っても構わんよ。無理には勧めん」
嫌なら茶の衣を置いて去ってよいという顔で、博士は学房の扉をちらっと目で示した。
それでも去る者はいないようだった。
「ここで着替えていいの?」
ギリスは遠慮なく脱ぐ気のようだった。
「君は行くのかね。エル・ギリス。正直言って君が一番怪しいのだが。知識の
博士は
投げる奴がいるか。
思わず受け取ってから、スィグルはびっくりした。
掴んだ衣は麻でできていて、ごわごわしていた。こんなもの着たことない。
「さっさと着ろ」
誰に命じているのか、こちらが耳を疑う口調で、ギリスが誰にともなく全員に言った。
まさか僕にもか?
ふざけてるのかギリス。
不敬だぞ、僕は、アンフィバロウの……!
そう思いかけて、スィグルは老師がじっと採点するような目でこっちを見ているのに気づき、ぎくりとした。
「ち……父上は……どうなさったのか! 貴方に知識の
そんなはずないという気持ちで、スィグルは尋ねた。
自分が知っている父は、いつも美しく着飾っており、
朝議の席の赤い礼装はもとより、晩餐に来臨する時の夜会服も華麗だし、出陣の時の軍装も美しい。
とにかく父は常に華麗で美しいものなのだ。身なりから立居振る舞いに至るまで、
こんな小汚い格好をしたりするわけがないのだ。ほとんど
そう思って、ギリスに投げ渡された茶色の衣を持ったまま困惑していると、極めて残念そうに老博士がスィグルを見てきた。
「殿下。名君が、それを着るのが嫌で、知識の
お前にはがっかりしたという顔を、老師はしていた。
王宮の教師にそんな目で見られたのは、スィグルは生まれて初めてだった。
動揺して、思わず戸口の英雄たちを振り返ると、彼らはもうさっさと茶色い学徒に化けていた。
自分で着替えたのかと、スィグルはそれにもびっくりした。
英雄たちにも部屋にはお付きの侍女がいて、衣服の着脱を手伝っているはずだ。
それが王侯貴族の特権で、自分で着替えないのが作法だ。
彼らも準王族である以上、それを誇りとしていたはず。
「自分で着たの!?」
驚いて、スィグルは尋ねた。
ギリスは呆れた顔でこっちを見ていた。
「当たり前だろ。お前、こんなもんも着られないのか。まさか脱げないの、それ?」
スィグルの黒い
「脱げ……るけど、習わなかったの? 自分で脱いだり着たりするのは行儀が悪いんだよ。特に人前で……」
皆、見てるじゃないかとスィグルは動揺して英雄たちを眺めたが、彼らは気にしないようだった。
さっき、魔法をたくさん持っていると言われていた一番年下のエル・タイユーンが、さも当たり前のように、皆が脱ぎ捨てた英雄の
「殿下、脱ぐのをお手伝いいたしましょうか?」
冷たい顔で、ギリスが尋ねてきた。馬鹿を見るような目で。
少なくともお荷物だと、ギリスの凍ったような色合いの目が、いつになく雄弁に語りかけてきていた。
そういう
それならなぜ今も控えていてくれないのかと、スィグルは困ったが、それがギリスの本心なのだったら、隠されても困るのだろう。
「いや……いいよ。自分で着るけどさ」
そういえばトルレッキオへの旅の途中にもこんなことがあったなと、スィグルは思い出した。
旅程の最後には最小の人数だけの
侍女や侍従などは追い返され、王子でありながら、スィグルの身の回りの世話をする者がいなくなってしまったのだ。
その時スィグルは、世話はイェズラムがするのかと思っていた。
随行者の中で彼だけが英雄で、ただ一人の貴人だったせいだ。
だからイェズラム以外に、王族の身支度を手伝える者はいない。
スィグルはそう思っていたが、イェズラムはスィグルに自分で服を着ろと言った。
なにゆえに歴戦の大英雄が、お前みたいなチビの服や靴を着せたり脱がせたりしなくてはならぬのか。子守に来たのではないぞと、イェズラムは冷たい顔で厳しく言ったが、でも苦労して脱ぎ着するスィグルの
家臣に笑われて、スィグルも最初は
自分はそんな
しかも、もし、その時に多少なりと自分で着られるようになっていなかったら、トルレッキオの学院に着いた後に、自分は同じ苦労をしたのだろう。
山の学寮の執事たちは、なんと着替えは手伝わないのだ。山の民とは、そういうものらしい。
あの金髪の異民族どもに、無能な殿下と陰で
なにしろ彼は部族の大英雄で、族長リューズの
それにしても、あの制服の編み上げ靴にはまったく苦労した。長靴に革紐が通してあり、それを毎回自分で編んで結ばねばならない。
イルスは当たり前のように自分で履いたので、先に学院に着いていた自分が、手伝ってくれとも頼めなかった。
「早く行こうよ」
早くしろというのを、ギリスは困った顔で宮廷風に言った。
一応、こちらに気は遣ってくれているらしい。
王子だもんな。スィグルは納得して
「見るな。無作法だぞ」
皆がじっと見ている気がして、スィグルは命じた。
その声に、老師までもが慌てて目を
王子が自分で着替えをするような哀れなお姿を、
僕は王族なんだぞ。スィグルは内心でだけ、そうガミガミ言ったが、皆に言うのはもっと無様なので我慢した。
「自分で着られるんじゃん。偉いなお前」
自分でやれと言ったくせに、なぜか驚いた声で、ギリスが褒めてきた。
それにスィグルはムッとした。できないと思っていたのか。それなら手伝え。
どういう流れか、スィグルが脱いで軽く畳んでおいた黒い
おそらく序列の関係で、王族の衣装に触れてよいのは、侍女でないなら、そこにいる者の中で身分がもっとも高い者がやるのだ。だが目上の者ではありえない。
そのような様々な宮廷儀礼と序列の都合により、この中ではギリスなのだろう。
そういうことはこの馬鹿も、ちゃんと考えているのだと、スィグルは軽くむかむかして思った。
がさつそうに見えるのに、ギリスは主人の
いつもは侍女たちが魔法のようにビシッと畳んでくれている。
でもギリスも、今すぐに奥仕えができそうなぐらい器用だった。
魔法戦士たちは
エル・タイユーンも皆の
その一番上に、ギリスに渡されたスィグルの黒い
「それ、忘れてるぞ」
ギリスがスィグルの額を指差して、
「絶対に嫌だ。僕にも頭布を寄越せ。それを被れば見えないはずだ」
絶対に譲らないつもりで、スィグルはギリスに求めた。
学徒の頭布は顔を隠すためのもので、髪を結ったまま被る
顔が見えないわけではないが、布でできた
まさか通りすがりに布を
英雄たちの石が隠せるのなら、王族の
「まあそれでいいかな?」
ギリスが
「敢えて見つかる危険を冒したいと
殿下が、というところを、老師は有意に強く言った気がした。
僕のせいだっていうのか。僕の?
「ち、父上は……」
スィグルが尋ねようとしたら、ギリスが横からさっと
「何をするんだよお前は!?」
冠を盗られながらスィグルは思わず叫んだ。
戴冠させると言っている者が、逆に
「いいんだよ俺はお前の
「早すぎるだろ」
「練習、練習」
ギリスは面倒そうに言って、奪った冠の代わりに、
戴冠の時も、こんな雑にやるつもりなのか。
頭布を固定する金具が強めに頭皮を擦った気がして、スィグルは先が思いやられた。
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