073 大図書館の火守
史学の
ものの例えとばかり思って聞いていたスィグルは、老師の袖から華麗な赤い房飾りのついた鍵が現れたのに驚いた。
その鍵は真新しく、真鍮のようだったが、よく磨かれて輝いていた。
「この鍵は何ですか?」
差し出された鍵を受け取って、スィグルは尋ねた。
「この学房が誇る秘密の大図書館、知識の
「秘密の大図書館? そんなもの、一体どこにあるのですか」
スィグルは聞いたことがなかった。
タンジール王宮の地図は、子供の頃に見て
王宮の全図を記録した、幾枚かに渡る大きな絵図面が学房にあり、スィグルはその一枚一枚をかつて眺めて憶えていた。今でも頭の中で全てをつなぎ合わせて、絵図面の中の王宮を脳裏に空想することもできた。
その空想によって、まだ実際に行ったことがない場所でも、手にとるように分かる。
自分はこの王宮の全てを知っているつもりだったのだ。
だが、そうではないと言っている。この老学者が。
驚くスィグルの顔を見て、
「殿下がご存知の図面にはなかったでしょうな? しかし、あるのです、昔から。王族の殿下がたはご存知ないかもしれないが」
「このタンジールに王族が知らないものなんて、あって良いのでしょうか」
思わず非難する声で、スィグルは尋ねた。
「おや。そう仰るが、王族は何もかもご存知でしょうか? 殿下は、庶民が自分の
楽しげに老博士は反論してきた。
そう言われると、知らないのかもしれなかった。
スィグルは思わずムッとした不満の顔で老師に答えた。
「それは知りません。しかし、その大図書館なるものは、この王宮の中にあるのですよね?」
「
老いた学者はしれっと答え、頷いた。
「そんなものがあると父上はご存知なのか?」
それでは父の知らぬところで、学者たちが何かを隠し持ち、企んでいても、気づきようがないではないか。
それは叛逆なのではないかと、スィグルは匂わせたつもりだった。
でも博士はそれにも笑っていた。
「殿下のお父上はご存知だ。お若い頃に私がお教えした。だが本来はずっと、族長や王族には秘密の場所なのです。殿下もご兄弟には御内密になさっていただきたい」
まことしやかに言う老人を見て、スィグルは唖然とし、何と言うべきか分からずギリスを振り返った。
背後で叩頭していたギリスは、今はもう戸口のところで顔を上げており、緊迫の表情をした
そのギリスに、スィグルは目で問うたつもりだった。
この爺さん、大丈夫なのか? 頭がおかしいか、そうでなければ叛逆者だぞ。
でも、ギリスはただ無表情に肩をすくめて見せただけだった。
ギリスにも、これは知らない話だったらしい。
「それは一体、どういうことでしょうか、
話によっては父に訴え出る必要があるが、でも老師は族長は知っていると言っていた。
もし本当ならば、なぜ父がそのような事を許してきたのか、説明してもらいたかった。
老師は隠すつもりはないらしく、至って平静な顔でスィグルに答えてきた。
「知識の
「万が一とは?」
スィグルは予想されるどんな
「
「そんなことするわけないでしょう」
憤然としてスィグルは答えたが、老師は笑って肩をすくめ、なぜかギリスを見た。
スィグルがまた振り返って見ると、ギリスは素知らぬ顔をしていた。
どういう意味なのか。
「
「もちろん」
スィグルは頷いて答えた。
宮廷詩人たちが働く区画には、美しく巻物にした
詩人たちが詠唱を行う
とは言え、
どの物語が正しいのか、
その
父も多くの詩人を王宮に住まわせ養っている。
「知識の
「違うわけないだろう。ずっと
スィグルはそれが常識と思い、老学者を諭したが、老師もスィグルを
「違います。ご自身でご覧になればよい。この部族の黎明の記録は
「な……」
何だってと言おうとして、スィグルは
この老人と喧嘩になっても、自分に得なことは何もない。
今のところ、学房の者と縁をつなぐ唯一の糸口だ。
他の博士をあたってみてもよいが、この程度でいちいち怒っていては、何かがまずい。そう思えて耐えたのだ。
その怒っている様子を見て、老人は気味がよさそうにいひひと忍び笑いしていた。
「どうも祖先たちにも当代の我らと同じく、学のある者と、そうでない者がいたようです。森の奴隷だったのであるからして。主人の
史学の
「でも、祖先の中にも字が読める者はいたのです。太祖に付き従った黎明の氏族の中に。その者は主人の書物を読むことができ、皆が知らされていないことを知る余地がありました。その者の名がお分かりか?」
スィグルは首を横に振った。そんな話は部族の黎明の
初めて聞く話だった。
「ええと……君たちには、わかるかな? 誰だと思う」
皆、無言だった。
ギリスは平然としていたが、彼の
皆が知っている話ということではないらしい。初めて聞いたという顔で、年若い魔法戦士たちは戸惑って見えた。
「殿下。これは、気軽にしてはならぬ話なのです。お分かりかと思いますが」
そう言う割には、あっさりと言って、史学の
答えない生徒たちのことは諦めたらしい。
「エル・ディノトリスは未来視ではないというのが、この老官のとる説です。彼は、タンジールがここにあると知っていたのです。場合によっては千里眼も使わなかったのかもしれない。ただ知っていただけかもしれません。主人の書物を盗み読んだために」
「では黎明の
スィグルは自分が思わず口にした言葉に、ずしりと胃が重くなるのを感じた。
それを見て、老人はまたイッヒッヒと楽しげに意地悪く笑った。
「首を切られますぞ殿下」
何が
「俺も質問していいかな?」
ギリスが背後から呼びかけてきた。
振り向いて見ると、ギリスは今もまだぼうっとして見える真顔で、こちらを見ていた。
「何かね、エル・ギリス」
優しく許す声で老師が答えた。
まだ戸口に居るまま、ギリスはよく通る声で尋ねてきた。
「あんたの説が正しければ、森の連中はタンジールの場所を知っていることになる」
「そういうことになるな」
ギリスは淡く悩んだような顔をして、首を傾げて言った。
「だがこの千年、タンジールが襲撃されたことはない。当代が即位する前の暗君の時代には、
ギリスは不可解そうに言っていた。かすかに顔を顰めて、不快そうだ。
その顔が、まるでタンジールが索敵兵に見つかっていないのが、何かの間違いだと不満のように見え、スィグルは呆れた。
もし見つかっていたら、この地下都市での市街戦になったかもしれず、戦う
そうならなくて良かったと、心から喜ぶべきところだ。
それを老師が叱るかとスィグルは思い、黙っていた。
しかし学者は怒る様子もなく、静かにギリスに答えてやった。
「敵は忘れたのだろう、タンジールの
「そんなことある?」
納得いかないという顔で、ギリスが軽く叫ぶように言ってきた。
「なにしろ千年前なのだよ、君。私など、昨日食った飯がなんだったのかも忘れるよ」
とぼけた様子で老学者は穏やかに笑っていた。それでは困るだろうとスィグルは呆れた。
「俺は憶えてる。
真剣な顔で、ギリスは自信をもって答えていた。
「美味かったかね?」
老師が聞くと、ギリスは真面目に
「でも、君は一年前のことは憶えているか。十年前の今日、昼飯に何を食べたか憶えているかね?」
「思い出せない」
ギリスは素直だった。それに老師は満足したようだった。
「そういうものだ。人は忘れる。だから記録し、それを保管するのだ。それが我ら学房が千年
父が許したという話を、スィグルは顔を
嘘か本当か、それは父に聞いて確かめるより他にない。この爺さんが勝手にそう言っていても、こちらには分からないのだ。
その、知識の
爺いの妄想かもしれないではないか。
しかし、老博士はとても
「学房には、千年続く
「そんなことしない」
黙っていられず、スィグルは老師の話に口を挟んだが、老人は
「殿下。太祖が火炎術師であられたのはご存知ですな」
それは部族の者なら子供でも知っている。たぶんギリスでも知っているはずだ。
火炎術は王家の者が血族の
しかし第一王子は火炎術を使う。大した火ではなかったが、もしも大した火であれば今頃自分は消し炭になっていたのかと、スィグルは今朝の朝議での燃える手布のことを思い返した。
太祖アンフィバロウも、魔法の火を使う者だったのだ。彼はその火炎術で、森を脱出する仲間と、自分たち兄弟を守った。
「祖先たちは森を出る時、
史学というより、それは
だが確かに太祖アンフィバロウは火炎術師で、今も絵にする時には、炎の揺らめく中に座す姿で描かれる。
彼は憎き敵を、容赦無く焼き殺す。民を
それが太祖の愛だと、
部族の魔法戦士たちも、それに
敵への憎しみは、この千年ずっと、部族への愛だったのだ。
だが結局、
スィグルがそういう思案に暮れる気分になりかけた時、急にまたギリスが
「
老師は不思議そうにギリスを見つめた。
「君たち魔法戦士は、黎明のエル・ディノトリスにタンジールを未来視して欲しいのだろうね?」
そうであればタンジール到達は魔法戦士の手柄になるからだ、と博士は言いたいのかもしれなかった。
確かに、もしもエル・ディノトリスが魔法戦士ではなく、敵の書物を読んだだけの知識ある男なのだったら、それは一体誰の手柄か。
学房の者たちか?
エル・ディノトリスは部族の最初の竜の涙だったが、学房の祖でもあったことになる。
部族の黎明の時期に、知識の
「いや。そうじゃないよ。俺は別に、エル・ディノトリスが未来視でも、そうじゃなくても、どっちでもいいんだ」
ギリスは困った顔で、老学者と話していた。
その様子が、先ほど廊下で魔法戦士の兄弟関係の難しい説明をさせられた時のギリスと似ていて、スィグルには彼が、何か複雑な話をしようとしているふうに見えた。
老学者は真面目な顔で、ギリスの話を聞いていた。
「
ギリスは急に、自分の背後に控えている
問われてびっくりした顔で、エル・サリスファーがギリスの顔を見上げた。
「僕も氷結術だけです。でも、タイユーンはたくさん使えます。火炎術と雷撃術と、念話もできるし、千里眼も使えます。あと、治癒術もだっけ?」
サリスファーが一番後ろにいる子に聞いていた。確か晩餐の時に、もうすぐ命名日だと言っていた子だ。
「治癒術はちょっとだけですけど」
「いろいろありすぎだ。何歳なんだお前は。どれかに決めろ。
昨晩、来週に十四歳になると聞いたばかりなのに、ギリスがそう叱るのを、スィグルはぽかんとして聞いた。
エル・タイユーンは何も言わなかったが、ギリスに褒められると思っていたようで、しょんぼりしていた。
「今もこういうのがいるんだから、千年前もそうだろう。竜の涙の間では代々、英雄ディノトリスは千里眼で、未来視だったことになってる。未来視の魔法は今も実在してる。だからディノトリスも使えたはずだ」
ギリスは老師に向き直り、難しい顔をして喋っていた。その、大して難しくもないような話を。
老博士は黙ってそれを聞いてやっていた。
「
「なるほど」
ギリスの意見に、老師は頷いていた。
「魔法だけでは完璧じゃないんだ、
「賢いな君は」
驚いたように老師は軽く叫んでいた。
「イェズラムがそう言ってた」
「まさに
感銘を受けたように老博士は言い、ギリスを眺めた。
「君の
誰もが知っているようなことを、老師はギリスに確かめていた。
それにギリスは頷いていたが、なぜ聞かれるのか、分かっていないようだった。
「まさに英雄でしたよ」
しみじみと老師は亡きエル・イェズラムを褒めた。
それにもギリスは異存がないようで、したり顔で頷いていた。
「古来より、この部族の黎明の
「そうだよ」
ギリスは不思議そうに、あっさりと答えていた。
「殿下、この氷の蛇を大切になさるがよいですぞ。案外、賢いようです」
老博士は真面目な顔で、スィグルに忠告してきた。
そのような気もしたが、そうとは思えないぐらい、ギリスは時々、ぼうっとして見えた。
「学房の掟には、知識の
重々しくそう言って、老博士は急に、いひひと笑った。
「それでうっかり、殿下が直にご覧になるものかと。しかしこれは、鍵を渡す相手を間違えましたかな? 私も歳だろうか。君が馬鹿に見えるのがいけないんだよ、エル・ギリス」
「そろそろ話に飽きてきたんで、もう行っていいか。その、知識の
真剣な顔で、ギリスが求めた。博士は笑いながら鷹揚に頷いていた。
「ああ、それがいいね。殿下に付いていってもらいなさい。そこの英名なる君の
気前よく許して、博士は学房の隅に用意されていた
中には何着かの官服が入っていた。学房の者たちが着るものだ。暗く染めた茶色の衣で、これといった装飾もなく極めて地味だ。
博士たちが纏う服装は官服でも、もっと立派だが、これは下っ端のお仕着せだろうと思えた。スィグルは見たことがない。
「学徒の衣です。知識の
博士はそう言って、スィグルの額を指差していた。頭に巻いている高貴なる輪を、外せという
「嫌です」
スィグルはきっぱりと言った。
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