072 高貴なる鼠

 スィグルには、その老人に見覚えがあった。

 もちろん、一度でも会ったことがある者を簡単に見忘れたりはしないものだが、何度も会ったことがある者ならば、なおさらだ。

 老人はいつも菓子と本をたくさん学房へやに持っており、しかも定期的に置きっぱなしの本を入れ替えるので、油断がならなかった。足繁あししげかよって読み終えなければ、読破する前に本がどこかに消えてしまう。

 おあつらえ向きの、つまみ食い用の菓子もあったし、まだ幼年の頃、後宮を出されて王宮の通路を自由に散策できるようになったスィグルは、日々の無聊ぶりょうなぐさめとして、この老人の学房へやに通い、そこらじゅうにあった本を勝手に読んだ。

 菓子も盗んだ。そういうことになる。

 かつて後宮の母の居室に住んでいた頃、そこらへんにある菓子を食ってはならぬ理由はなかった。後宮の女官たちが殿下のおやつとして用意した菓子が、美しく盛り付けられて常に置かれていた。

 それを貪り食って育ったわけだ。

 同じ気分で、学房のそこらじゅうに無造作に置かれていた菓子箱の中身は、食って良いのだと思っていた。

 官服の老人は何も言わなかったし、その菓子箱も面白い本と同じで、行くたびに新しいものが置かれていたからだ。

 しかし。

 学房は博士の部屋で、王子の私室ではない。そこにあるものは博士たちのものだっただろう。書物も、菓子も。

 自分は両方、勝手に盗んだ。

 無断で読破した書物の中身は今も全てスィグルの頭の中にあったし、菓子はとおに血肉となって消えている。

 今さら返すことはできない。

 そう思い、スィグルはこちらのことをもちろん記憶しているらしい老人と学房で向き合い、絶句した。

「おや殿下、お元気そうで何よりでございました。本日は、どのような御用向きで、この老官をお訪ねくださったのでしょうか?」

 スィグルが何か言う前に、老人はいきなり話しかけてきた。

 随分、話の早い人だった。

 確かに以前、まだ子供の頃にはスィグルは、挨拶もなくこの老人の部屋に勝手に入り、勝手に話しかけていた。向こうもこちらを居ない者のように無視してくれていたので、叩頭など、お互いにしたことがない。

 でもこうして、自分も一人前になってみると、それは異例のことだった。

 幼年とはいえ、自分は学房には随分と、礼儀を欠く王子だったようだ。

師父アザン……」

 怪訝けげんな顔で、ギリスが学房の戸口に座った。叩頭するためだ。

 挨拶もまだだった。部屋に入るなり、老人が話しかけてきたのだ。

 ギリスは作法通りに叩頭した。立ち尽くすだけの自分を背後に残したまま。

 ギリスのジョットたちも慌てたように、それにならって平伏した。

「本日は、教えを乞うため参上しました。レイラス殿下が史学の講義を御所望ごしょもうです」

 ぎょっとするほど、ギリスはうやうやしくしゃべった。

 そんなことができるなら、なぜ普段からしないのか、スィグルは唖然として平伏するギリスの背を見下ろした。

 作法も完璧だ。美しい叩頭礼だった。どこに出しても恥ずかしくない礼儀だ。

 そんなことがなぜできるのだ。いつもしないくせに?

 それが何か可笑しかったのか、正しく叩頭するエル・ギリスを眺めて、学房の中程の席に胡坐していた博士は、おっほっほと気味良さそうに笑った。

「氷の蛇よ。今日は大変なお方と来たものだ。そういう時は君もちゃんと叩頭するのだね。安心したよ」

「この前もしたはずだ」

 平伏したままギリスが低い声で博士に訂正した。それに老人は楽しげにふふんと笑った。

「今日は貢物みつぎものは持って来ましたか」

「忘れた」

 ギリスはきっぱりと言った。

 お菓子のことだろう。持ってくる約束だったのか?

 スィグルは立ったものか座ったものかも分からず、戸口に立ち尽くしていた。

 まるでこの部屋には居場所のない亡霊のように。

 でももちろん博士にはこちらが見えており、老人は面白そうに見て来た。

 白髪だが、官服に相応しく、きちんと結われており、美しい老人だった。まるで学房に飾られた老賢人の人形のようだ。

 それでも、明るい灰色の目が、子供のように輝いて見える。

老師アザン……大変ご無沙汰しておりました」

 見つめられて、黙っているわけにもいかない気がして、スィグルは思わず立ったまま話した。

 それに老博士は微笑みのまま首を傾げた。

「殿下は長く部族領の外に遊学され、王宮の作法はお忘れになられたのですか?」

 いかにも、そうなのだなという口調で言われ、スィグルは自分の立場が分からなかった。

 王宮の序列では、自分はこの場の第一位のはずだ。王族なのだし、他は皆、平民だった。

 魔法戦士は貴人の扱いだが、実際に貴人の出である者は少ないだろう。そこらの街の者の子なのだ。それが王宮で養育され、貴人にふさわしい知恵と礼儀を仕込まれる。

 博士については、貴人もいたが、王宮の学房に入る者は大抵は身分のない者だ。

 尊い血筋に生まれた者が、わざわざその地位を捨てて、王宮の博士になったりはしない。

 そういう例がない訳ではなかったが、それは変わり者の類で、大抵の博士は、己の知性を頼りにここまで栄達してきた頭の良い平民だ。

 だから、尊いアンフィバロウの子に、指図できる者はいないはずだった。

「貴方が、僕にここに来て叩頭しろと言っていると、エル・ギリスから聞いた」

 スィグルは戸口で立ったまま、博士に言った。

 王宮での作法は序列が全てだ。それが決まらねば、どこに座るべきかも決まらない。

 博士は自分に首座を譲って控えるべきだが、全く立つ気配もなかった。

 そこに座ろうとはスィグルは思っていなかったが、それでも博士から席を勧められるはずだった。

左様さよう、昨日、この者にそのように申しました」

「異例のことだ」

 無礼だぞと言う代わりに、スィグルはそう言った。

 この老人に頭を下げてもいいが、なにしろ額冠ティアラをつけた頭だった。容易には下げられない。

 王族の威厳を保つのも、王族の務めだ。

 アンフィバロウの一族は、ただの一家ではない。この部族のかなめで、皆があがめる星なのだ。

 それが権威を失えば、この部族領は一つにまとまらなくなってしまう。

 全てが正しく治まり、皆が幸福であるためにも、玉座の星は燦然さんぜんと輝いていなくてはならぬと、王子たちは教えられて育っている。

 自分たちもいずれ、その輝く星になるのだ。それゆえ、己をおとしめる行いがあってはならぬ。

「殿下は学房をどのような場所とお心得こころえか」

 微笑みの顔で、老人はスィグルに問いただしてきた。

「部族領の知識と学問が集積された場所だ。貴方もその知恵の一翼いちよくのはず」

如何いかにも、仰せの通り」

 老人は、正答を言った生徒に満足するような顔で、にっこりと頷いた。

「ここに来る者は皆、博士には叩頭します。部族領の知識と学問の集積に対し、殿下は叩頭なさらないのですか?」

 淡い笑みの老人に問われて、スィグルは一瞬考えたが、そう言われればそうだ。

 それに、この老人には借りがある。詫びるべきことも多いのだ。

 この際、久々に会ったのだから、頭の一つも下げておくべきだった。

 そう思い、スィグルが足元にまだ平伏したままだった魔法戦士たちの合間を拾い歩いて、博士の前まで行くと、小さな英雄たちは心配そうに盗み見てきた。

 それでも彼らの先頭にいるエル・ギリスは知らん顔で、とりすまして平伏したままだ。

 まるで時が止まっているみたいだと、スィグルはその姿を見て思った。

 ギリスは僕を助けないつもりか。それなら仕方がなかった。

 老人が座している首座の前に座り、スィグルは叩頭した。

 できない訳ではない。玉座の間ダロワージでは兄や父に叩頭するのだし、頭を下げて良い相手には王子も叩頭するのだ。

 それが学房の老人にもそうであるかは、時と場合による。自分の師であれば叩頭してよい。

 普通はそれは、教えを授けに居室にやってきた博士に対し、首座からであるが、この際はまあいいだろう。

 博士はスィグルの居室には来られない。誰も教えるなと後宮の恐ろしいババアどもが命じているらしいのだ。

 首を賭けてまでは、この老人も来たくないのだろう。そこまでの価値がスィグル・レイラスにあるとは、誰も思っていないのだ。

 まだ誰も。

 そう思うと、スィグルは内心、ムカッとした。

 敢えて言いたくはないが、兄たちは皆、馬鹿だ。さっさと読めば済むものを、何年もかけてチビチビと習う。

 そんな暇があったら、やるべきことが他に、王族にはあるのではないのかと思う。

 それが何かは自分もわからないが、とにかく、必要な学問などは、さっさと済ませればよいことだ。

 自分たちは学者になる訳ではない。この世でたった一人しかいない、タンジールの玉座のきみになるのだ。

 自分はその話をずっと昔に、この老人にしたような気がする。

 まだ幼髪をしており、学房に忍び込んでお菓子を盗むような、ねずみの殿下だった頃に。

「やあ。ようこそ学房へ、殿下。畏れ多いことだが、私は叩頭できない。殿下がここにおいでになるはずはないので」

 首座から見下ろしてきて、老人はスィグルにそう言った。

「貴方はここにいない。正式にはお迎えできません。それでよろしいでしょうか?」

 老人は恐れてはいなかったが、スィグルが怒り出すかと身構える様子ではあった。

 王宮の貴人は宝剣をげているものだし、スィグルもそうだった。

 対して学者はそんなものを持ってはいない。帯刀を許される身分ではないからだ。

 もし殿下の宝剣で斬られれば死ぬだろう。

 そうなるならやむを得ないなという諦めが、老人の体から感じられた。

「エル・ギリスには教えよう。お菓子を持ってくるのを忘れるような馬鹿だが、ここで学び直したいという君の向学心に免じて、貴重な学房の宝を分け与えても良い」

「学房の宝?」

 ギリスが背後から怪訝けげんに尋ねてきた。

 博士はそれに、ああ、と納得したふうに微笑んだ。

「そうだ。君は馬鹿なのだった。学房の宝とは、知識だよ。知恵だ。我々はそれを得るのに相応ふさわしい者にしか教えないんだ」

「なんでそんなケチくさいことするんだ。読んでも本は減るもんじゃないだろう」

「君の言う通りだ」

 ギリスが言うのがおかしいのか、博士はくっくっくと忍び笑いした。

「本は減らない。私の知識もそうだ。殿下。貴方がここで何を聞こうが、何かが減るわけではない。私のお菓子と違って」

 にっこりとして、博士はスィグルの顔を見た。

「君は随分ずいぶん、私のお菓子を食べましたよね、スィグル・レイラス君」

 憶えているぞ。そういうとがめる目で、博士は意地悪そうにスィグルの顔を見つめて来た。面白そうに。

「君のお父上に、盗みの罪で訴え出ても良かったのですぞ。それを黙っておいてさしあげたこの老官に、お菓子の恩をお返しいただきたい」

「僕がお菓子を何個盗んだかご記憶でしたら、同じ数を持って参ります」

「いいや。憶えていない。そのようなケチなことは今さら申す気はない。殿下は、これについてはご自身の名にしう、金の麦の大いなる実りをもって、この老師に報いるべきだ。そうお思いなのでは?」

 老人が片目を閉じて目配せし、そう言うのを聞いて、スィグルは可笑おかしくて、小さく吹き出した。

 妙な人だ。

「金の麦の実りをもって師の大恩だいおんに報います」

「まことに賢きおおせ」

 頷いて答え、老人は納得したようだった。

 官服の袖を正し、老人は首座から深々と叩頭してきた。

 極めてうやうやしい所作しょさだった。玉座の間ダロワージ謁見えっけんの座に現れた博士たちが、玉座に対してするような。

「学房の鍵は殿下のものです。かつて、尊きお父上にお教えしたことと同じものを、殿下にもお教えいたしましょう」

 にっこりとして約束した老博士に、スィグルは嬉しくて思わず自分もにっこりとした。

 そしてうっかり、トルレッキオでついた癖で、博士に右手を差し出した。握手しろという意味で。

 しかし博士は面食らったように、そのスィグルの白い手を見た。

 年老いた学者がこんなことで驚くとは意外だった。部族では身分が違うと握手しないものなのだ。

 その手を取ってよいのか、老人は難しい顔で悩み、困ったふうにスィグルを見て来た。

 それが見上げる目に思え、スィグルも困った。

 結局どんなに偉そうでも、彼らは平民で、自分と同じ立場ではなかったのだ。

 老人はそうは言わなかったが、少々、済まなそうな笑顔になり、自分の席の脇にあった美しい紙箱を取った。

 博士がその蓋を開くと、中に美しい花のような赤い菓子が並んでおり。まるで花園のようだった。

「アットワースの砂漠の薔薇という菓子です。殿下のお母上のご成婚を祝い市中で作られた菓子でした。大変お優しいお妃様で、民の慈善に尽くされ、今も民に愛されておりますよ。殿下も多少の困難には負けず、お励みください」

 菓子をすすめる仕草の博士から、受け取らない訳にもいかなかった。

 差し出した右手の引っ込めようもなかったし、それに、師が用意してくれていたお菓子を食わないのは非礼だろう。

「この困難は多少なのか」

 スィグルが確かめると、老師は微笑んで頷いていた。

「お父上にもそう申しましたが、リューズ様は笑っておいででしたよ」

 そう言われると笑うしかない。

 だから、やむを得ないのもあったが、この老人の遠回しなような、ごり押しのような励ましが可笑おかしくなり、スィグルは笑って菓子をひとつとった。

 それを口に入れて噛み砕くと、なんの味もしなかったが、甘いような薔薇の香気がした。

 それがかつて後宮で甘えた時の母の匂いであったか、もう思い出せない。

 自分にも思い出せないことはあるのだと、スィグルは驚いた。

 でも、それならもう、この菓子を母だと思って生きよう。もう二度と、自分と語り合うことも励ましてくれることもない母だが、嘆いても仕方がない。

 しかも博士はこちらを泣かそうとしている気がする。

 老人が、使うかという目で懐から手布を取り出して見せるのを感じ、スィグルは泣くものかと涙を堪えた。

 その時スィグル・レイラス・アンフィバロウが母を思って泣いたと、学房でこの後の千年も記録されるのが嫌だった。

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