070 布の蛇

 玉座の間ダロワージの王族の扉の前をスィグルの隊列が出発すると、それからほどなくして、エル・ギリスが追いついて来た。

 王族の列を追ってくる者がいるとは、スィグルは思いもよらなかったが、それでいて不思議と、ギリスが来るような気もしていた。

 側仕えというのは本当らしい。

「お前、言ってなかったの? 鷹通信タヒルのこと、自分の親父に」

 殿下、本日はご機嫌麗しく恐悦至極ですとは、エル・ギリスは言わなかった。

 いきなりその話かと、スィグルは呆れながら聞いた。

「言ってなかった。言う必要があると思ってもいなかった」

 スィグルは正直に答えた。

 迂闊うかつだったなと思ったが、そう気づいたのは先ほど玉座の間ダロワージ謁見えっけんの座に引き出されてからだ。

 呑気と言うか、我ながら馬鹿だった。

 ギリスに衛兵を蹴っ飛ばされて、自分はよっぽど頭に来ていたらしい。

 それが馬鹿になっていい理由とは、父も皆も思わないだろうが。

 なにしろ、この部族では、どの部族でもだっただろうが、天使と話せるのは族長だけの特権だった。

 形の上で、自分は父の族長権の一部を侵したことになる。族長冠もないのに、勝手に天使と話そうとした。王都タンジールから無断で鷹を飛ばしたのだ。

 それを見て、叛意ありと思おうとすれば、思えないこともない。

 そうではないと信じていたから、父はいきなり皆の前で聞いてきたのかもしれないが、返答次第ではあの場で引っ捕らえられて、首を落とされたり、地底湖の上の籠に永遠に吊るされたりしたのだろうか。

 叛逆した王子がどうなるのか、それに詳しい者に聞かねばなるまい。

 今後のいましめとするために。

「話したほうがいいよ。お前の親だろ。親ってさ、派閥のデンとか、長老会の偉い奴みたいなもんなんだろ?」

 親がいないギリスには、親子というものが分からないようだった。

「お前にとってのエル・イェズラムみたいなものかな」

 スィグルは曖昧あいまいに答えたが、ギリスにとってのエル・イェズラムが何なのか、実は知らなかった。

「俺はイェズには隠し事はしないよ。なんでも相談する」

「もう死んでるだろ」

 ギリスがまるでイェズラムが今も生きているように言うのが気になり、スィグルは訂正した。

「そうだけど、今もしてる」

 ギリスはしたり顔で言い、スィグルは並んで歩くその英雄の顔を、まじまじと見た。

 死者と話せるのか。ギリスはまさか。

 そういう能力があると自称する者がいるのも知っているが、まさかギリスがそうか。

「話せるの……イェズラムと」

「話せるよ。俺が一人で話すだけだけど。イェズラムはもう死んでるから返事はできないだろ?」

「独り言だろ、それ」

 スィグルは不思議で、ギリスにそう尋ねたが、英雄は首を傾げていた。

「違うよ。もしイェズラムが死霊になって王宮にいたら、絶対に俺の話を聞いてるはずだ。でもお前の親は生きてるんだから、ちゃんと話したらどうなんだ」

 ギリスの話に、何とも言えない空気が隊列の中に立ち込めた。

 何とか無事に朝議が終わってほっとしたのか、先導する侍従の中にはそででそっと涙を拭っている者までいた。

デンとは生きてるうちに話したほうがいいんだぞ」

 ギリスはやけに年長者ぶって説教する口調だった。

 確かに年長だが、お前は僕にそんな口を利ける立場かと、スィグルは少しむっとした。

「僕の父上はデンじゃないんだ。ギリス。この部族の族長だ」

 スィグルはまた訂正してやった。やはりギリスには親子というものが分からないのだ。

 魔法戦士たちは生まれつき竜の涙を持っており、産屋の赤子の頭部にそれを見た親は、その子を王宮に差し出す。そのように定められているからだ。

 その際に魔法戦士たちは、自分の血族との絆を断ち切らねばならない。王宮の一員となり、家族となるためにだ。

 生みの親たちは、その子に名をつけることすら許されないのだ。

 英雄たちが生きようが、すぐに死のうが、血縁者たちに報せがいくことはない。

 ただ英雄譚ダージでのみ、その活躍を知ることになる。それも、もしや我が子かも知れぬ、誰とも知れぬ者たちのいさおしとして。

 ギリスにもこの世のどこかに親がいて、それと引き離された日があったはずだが、家族と別れた日を記憶している魔法戦士はいない。

 彼らは、王宮に捨てられた孤児なのだ。

 魔法戦士にとっては、同じ石を持つお互いだけが家族で、お互いを兄弟と呼び合っている。

 親はいない。

 だから、親にどう思われるかを気にすることもなければ、それに叛くこともないわけだ。

 気楽だなという気がして、スィグルは先程の父の叱責にいつまでもクヨクヨしている自分のことを思った。

 魔法戦士は気に入らなければ仕えるデンを変えてもいいらしい。

 そんな手軽なものが親なわけがなかった。

 スィグルにとっては、アンフィバロウの血筋と、あの玉座の君が自分の親だという事実は厳然としており、逃れようがなかった。逃げたいとも思わないが、考えないこともなかった。父がもし族長ではなく、自分たち兄弟もその殿下でなければ、別の道もあったのではないかと。

「俺には族長はデンなんだけどなあ」

 ギリスが急にしみじみと言った。

「はあ?」

 スィグルは虚を突かれて、ギリスに素っ頓狂な声で答えた。

 驚かれて、ギリスはなぜか決まりが悪そうな顔をした。

「だってイェズラムがそう言ってたもん。イェズが死んだら、誰が俺のデンになるのか聞いたんだ。その時にイェズは、族長だろうって言ってた」

「はあ? 何だよそれ。そんな話……聞いたこともないぞ」

 ギリスはそう問いただされて、悩む顔になった。

 なぜそうなるのか、自分でも理解していなかったらしい。

 エル・イェズラムの言うことを、ただ丸呑みに真に受けていたのだろう。

「わかんないけど、とにかくそうだよ。長老会の重鎮デンたちは、族長の兄弟なんだ。イェズラムは本当に族長の乳兄弟だったらしいけど、そうじゃなくて、伝統的に、兄弟だ。俺はイェズラムのジョットだし、族長もそうだろ? 一番上のデンが死んだら、そのすぐ下のジョットだった奴が、他の奴のデンになるんだ……」

 珍しい長話で、ギリスは説明してきたが、何を言っているのかよく分からなかった。

 ギリス自身も分からなくなったようで、言いながら顔をしかめていた。

「俺の言ってること、わかる?」

「全然」

 悩む顔で聞いて来たギリスに、スィグルははっきりと言ってやった。

 なんで父がイェズラムのジョットなのだ。

 その、乳母を通じた乳兄弟の関係は事実らしいが、そんなことは関係ないとスィグルは思っていた。

 至高の玉座に座す者が、誰かの目下めしたということは、この部族ではありえないのだ。

 父はこの部族の序列において、太祖アンフィバロウと同じ位置にいる。

 太祖は至高の首座にいて、それ以降の代々の族長も父や自分から見て祖先なので偉いが、でももう死んでいる。生きている者で、父の序列を超えられる者はいない。

 だから族長にデンはいないのだ。

 魔法戦士たちは、生きてはいるが、彼らは英雄ディノトリスと同じ位置にいて、おそらく死者の扱いだ。

 いずれ死ぬ者という扱いだ。

 それをギリスには言えなかったが、しょうがなかった。

 お前は生まれながらに死者なのだとは、さすがに言いづらい。

 実際、ほとんどの竜の涙は王宮に迎えられてすぐに死ぬ。数の上では、全土から集められた哀れな赤子たちの、ごく一部が生きながらえているにすぎないのだ。

 たまたま死ななかった者が成長し、部族の英雄となる。でも明日には死ぬ者たちだ。

 部族の民は彼らのことを、そう思っている。まだ生きている死者なのだと。

 だから、突然現れた死霊に、お前は口の聞き方がなっていないとか、上座に座るなとか、文句をつけるのは難しいだろう。

 ギリスは亡霊みたいなものなのだ。

 それにしては活きがいいが、天使の格別のお恵みだろうと思うしかない。

 ギリスがいつまで生きているのか、スィグルにも分からなかった。考えると気が滅入る。

 それなのにギリス自身はどう見ても平気そうだった。何も深くは考えていなさそうだ。

「まあいいか。分かんないけど、とにかくそんな感じだ。ところで腹減ってないか? 朝飯がかゆだったから、もう腹減ってきちゃった」

 ギリスは切なそうに聞いて来た。何かを深刻に考えている者の顔には見えない。

「どこへでも行って、お前の好きなものを食えばいいだろ」

 スィグルが呆れてそう許すと、ギリスはぱっと嬉しそうな顔をした。

「ほんと? じゃあ、どこ行く……でも着替えて学房に行くんだぜ。その後は、何だっけ。あの念動術の女と会う」

 あの念動術の女って。スィグルは困った。何と言うべきか。

星園エレクサルばつのエル・フューメンティーナのことか?」

「それ」

 ギリスはびしっとこちらを指差してきた。

 どこまで無礼なやつなのか。よく今まで首も打たれずに王宮で生き残れたものだ。

 とっくに誰かに恨まれたり、地位のある者の逆鱗に触れて、死せる小英雄になっていそうだが、ギリスは屈託のない笑顔だった。

「あいつに頼もうかと。お前の念動術の訓練、やるって言ってただろ? 俺も一緒に習おうかな」

 にこにこして、ギリスは楽しみなようだった。

「使えるの? お前も念動術」

「いいや全然」

 ギリスの言っている意味がわからず、スィグルはちょっと怖くなった。

 こいつが何を考えてるのか、わかるようでいて、全然わからない。

 ギリスと話していると、自分が人の話を理解できないほどおかしくなったのかと不安になるが、たぶんギリスがおかしいのだった。

「あいつさ、術の発動がめちゃくちゃ速いんだよ。すごいよな。あんな速い女、見たことないぜ」

 ギリスは何を見たことがあるのか、いかにも凄そうに言うが、スィグルにはさっぱり分からなかった。

「ギリス。女じゃない。星園エレクサルばつのエル・フューメンティーナだ」

 王宮には様々な建前がある。スィグルはそれを教えたつもりだった。

「それ。エル・フューメ」

 ギリスはまた頷いていた。

「今日どこにいるのか知らないんだけど、たぶん会えると思う。俺の予感では」

「何言ってるんだお前は。どこで会うか約束してないのか?」

 スィグルはびっくりして聞いた。

「してない。昨夜ゆうべの今日だぞ。話す暇なんかないよ」

「してるのかと思うだろ。そういう話の流れだっただろ?」

「フューメと一緒に飯食う?」

 ギリスは唐突にそう言ってきた。スィグルは絶句した。

「昼食のことか? 一緒に食べるような仲なのか、お前と、その、エル・フューメンティーナ……」

 晩餐と違い、昼食は皆がそれぞれの場所で、親しい者と食べる。会食をする者もいるが、それは役目がある場合だろう。普通は一人か、仲の良い者と食べるのだ。スィグルはそう聞いている。

 だから自分もいつも、弟のスフィルと食事していた。仲がいいか分からないが、双子の兄弟だからだ。

 ギリスはいつも誰と食っているのだ。エル・フューメと?

 スィグルは身構えて尋ねたつもりだった。自分はもしや気を遣うべきかと。

「女も昼飯ぐらい食うだろ?」

 それとも食わないのかと考えているような顔で、ギリスは聞いてきた。薄気味悪そうに。

 親しい訳ではないのか。

 スィグルは一瞬、訳がわからなくなり、ぽかんとしてギリスを見つめた。

 てっきり、彼らは仲が良いのかと思っていた。ずいぶん親しそうだったので。

 英雄たちの関係が全く分からない。何を基準に測ればいいのか。

「どうやって誘うつもりだ……エル・フューメンティーナを」

 念のためスィグルは聞いてみた。

「女派閥のあるとこまでいって、そこらへんにいた女英雄エルに、フューメと飯食いたいから呼んでって頼む」

 いきなりか。

 そういう作法はまだ知らなかったが、スィグルには良い案と思えなかった。

 その確信はなかったが、止めた方がいいのではないかと。

「よく分からないけど、絶対やめておいたほうがいいと思う」

「じゃあ、レイラス殿下がフューメと飯食いたいから来いって言う?」

 ギリスは思案している顔で、相談してきた。

「いや……それもやめて欲しい」

 スィグルは傾いて答えた。朝から走ったせいか、ぐったりするほど全身が疲れた。

「おい。聞いてくれ、そこの者。お前たちだ」

 スィグルは前を歩いている侍従たちに語りかけたが、彼らは無反応だった。

 話しかけられていると気づいていないらしい。

 隊列の侍従は主人とは話さないものだからだろう。彼らはできるだけ沈黙を守るよう決められている。

「頼むよ。聞いてくれ。女英雄に遣いを出すには、どうしたらいい? 知ってるか」

 スィグルが尋ねると、先導するうちの最後尾の者が、困ったようにちらちらと視線を投げてきた。

「話していいから、教えてほしいんだ」

 スィグルが頼むと、先導の侍従たち全員が、困った顔でそれぞれ振り向いてきた。

「侍女に」

 小声で、先導の列の何者かが答えて来た。

 どれが喋っているのかと、スィグルは赤い衣装の群れを見渡したが、よく分からなかった。

「女官にお命じください、殿下」

 また別の誰かが答えたが、先頭で旗印を持っていた者が、シッと厳しく静まるように言った。

 そうなるともう誰も何も言いはしなかった。

 まるで死霊のように、沈黙して歩き続けている。

 やがて延々と続く通路も、スィグルの居室があるほうに近づいてきた。

 ギリスは部屋の前まで見送ってくれるつもりのようだった。

 護衛というなら侍従がいるのに、ずいぶんと用心深い。

「俺も着替えて迎えにくるからさ、平服着て待っててよ。王族だからって、これ見よがしにあんまり派手な服着るなよ、殿下。目立つから」

 ギリスは笑顔で手を振っていた。

 それを儀仗ぎじょうして主人を迎えたレダの徽章の衛兵たちが、じっと見ていた。

 これ見よがしに派手な服ってなんだよ。そんなもの着てないだろうとスィグルは思ったが、言われると気になった。

 そんなもの着ていたのか。

 確かに王族の衣装は華麗で、絢爛けんらんなのかもしれなかった。

 それに比べて英雄たちは質実剛健で、宮廷人らしい洗練はあるものの、小ざっぱりとして武人らしさもある衣装を着ている。それが彼らの流行らしかった。

 確かに格好が良い。

 しかし王族がそれを着るということはない。服装にはしきたりがある。

 でも格好いいんだよな。

 スィグルは葛藤しながら、自分の居室に戻った。

 王族の礼装を解くのは侍女の仕事で、女たちはレイラス殿下の着せ替えのために、すぐにぞろぞろと現れた。

 もう見慣れて来た、ひどく身長差がある凸凹した女たちだ。

「頼みがあるんだけど、言ってもいいかな」

 着替え用の部屋で重たい礼服を脱がされながら、スィグルは無表情に立ち働く女たちに聞いてみた。

「何なりとお申し付けくださいませ」

 そう言う割には冷たい顔で、一番年長のように見える女官が答えた。

 スィグルの髪飾りを外して片付けていた者だ。

「エル・ギリスと学房に行くので、地味な服を着ろと言われた。そうしてくれる?」

かしこまりました」

 立ったまま膝を折る立礼をして、髪結の女官はかしこまってくれた。

「それから……星園エレクサルばつのエル・フューメンティーナに遣いを出せるだろうか?」

「どなたでございますか」

 フューメンティーナを知らないようで、女官たちは不審がる表情をした。

「えっと……黄色い目の子だよ。黄水晶の花簪はなかんざしを挿してて、ふわっとしたすその、顔はすごく可愛い……」

「英雄でございますよ、殿下」

 絶対に何か誤解している顔で、スィグルはとがめ立てされた。

 そんな馬鹿なと思った。まさかそんな、変な気持ちで付け文でも渡すと思われたのか。

 思いがけず傷つき、スィグルはちょっと青ざめた。

 部屋に置かれている大鏡が、その傷ついた自分の顔をはっきり写していた。

 まだ全然、こんな子供みたいな顔なのに、そんなことを言われるとは、ひどいじゃないか。

「念動術を習う約束なんだよ!! 昨夜の晩餐で向こうが僕のところに来て、そう言ったんだ」

 思いがけず大声が出て、スィグルは自分でもびっくりした。

「左様でございますか」

 冷たい声で女官が答えて来た。

 信じろ、馬鹿と、叫びたい気分だった。

「後ほど遣いをやって女英雄エルのご都合を伺ってまいります」

 女官はそう答えたが、エル・フューメンティーナにちゃんと正しく伝えてくれるか心配だった。

 でもギリスが直に行って、そこら辺にいた者に頼むよりは、無礼のない、ちゃんとした申し入れかと思ったのだ。

 そういう作法は本来、側仕えする者や、行儀作法の教師が教えるものではないのか。

 なぜ誰もいないのか、嫌がらせかと思うが、無茶苦茶すぎる。

 自分がこのまま大人としての礼儀も知らず成長するのかと思うと、スィグルは悲しかった。

 あともう一つ、侍女に頼み事があったが、聞いていいのかも分からない。

 もし無礼だったら困ったことだが、おそらく大丈夫だろうと思えた。

「最後にもうひとつ……」

 一応は遠慮がちに、スィグルは女官たちに言った。誰に何を頼めるのかもよく分からない。

 仕方なく誰にともなくスィグルは言った。

「エル・ギリスに渡す手布を用意して欲しい。訳あって借りたが、訳あって燃えてしまい、そのまま返すのも良くないと思うから、できれば新しいのを用意したい」

 スィグルはそう言ったが、そもそも借りた手布は持ち帰ってもいなかった。銀杯の中に残したまま玉座の間ダロワージに置き去りだ。

 そのことをギリスに詫びるべきだったかもしれないが、あいつがいきなり変な説教してくるものだから、言いそびれてしまった。

 大事なものでないといいが。

 別に何の変哲もない白い布だったと思う。

「白い亜麻布あまぬのだった」

 スィグルはそれだけ侍女に教えた。

かしこまりました。針子に申し伝えます」

 そう言って女官たちのある者は控えの間に引き上げ、ある者は持ってきた黒い長衣ジュラバをスィグルに着せた。

 地味にしろとは頼んだが、まるで喪服のように地味だった。なんの飾りもない。

 そこまで地味じゃなくてもいいのではと思ったが、もう今さらだ。

 極めて簡素な平服で、この格好で王子が居室を出歩いていいのかと思うほどだった。

 富裕も王家のほまれなのだが、そこは大丈夫なのか。

 やがてギリスが戻ってきた。

 ものすごく疲れた顔をしていた。

 歩き疲れたという顔で、ギリスは戸口に平伏し、一応の恭順を見せた。

 でも、ただ草臥くたびれたから座って休んでいるだけにも見えた。

「殿下。俺の部屋が遠い」

 叩頭から顔を上げるなり、悲しい顔でギリスが言った。

「もうちょっと近くに引っ越せないか、長老会に頼んでみる」

 そうすればギリスが近くの部屋を与えられるものなのか、スィグルには全く分からなかったが、好きにすればいいと思った。

 確かに、もし本当に毎日行き来する気なのだったら、近いほうがギリスには楽だろう。

 ギリスが今どこに住んでいるのか、スィグルは知らなかったが、英雄たちの区画のどこかなのだろうし、それはここから近いとは言えない。

「えらく地味だな、殿下」

 首を傾げて、ギリスは居室の居間で待っていたスィグルを、戸口から遠目に見てきた。

「お前がそうしろって言ったんじゃないか」

 何を言い出すのかと、スィグルは首座で頭を抱えた。

 そうじゃなければ侍女たちも、ここまで地味な衣装を王族の殿下に着せたりはしないだろう。

 見覚えのない服で、もしや自分の持ち物ではないのではないかとスィグルは疑っていた。もしや背格好の合う誰かの服を着せられているのではないのか。

「派閥のジョットみたいだ」

 それが面白かったのか、ギリスはにこにこしていた。

 王族の衣装が無ければ、王子に見えないと言いたいのだろうか。

 絶妙に無礼だった。

 しかし、それにふくれていてもしょうがなかった。

「行こうか」

 結局、戸口から立って首座の前で叩頭する気はないらしく、ギリスはもう出かける気だった。

 ついてこいという仕草で、居室の扉をあごで示している。

 どっちが偉いか分からなくなってきた。

 ディノトリスはアンフィバロウのデンなのだと言うし、そういえば女官たちもそのように言っていた。

 出かけようとしたら、慌てたふうな女官たちが控えの間から現れて、黒塗りの盆に乗せた布製の何かを運んできた。

「殿下から英雄エルへの贈り物でございます」

 女官たちは戸口で立ったままのエル・ギリスに、その盆を捧げ持って見せた。

「うわぁ……何これ?」

 最初は嬉しそうな顔をしたものの、ギリスは途中で怪訝な顔になっていた。

 スィグルにもそれは遠目に見えたが、白い布でできた、とぐろを巻く蛇に見えた。

「殿下より、エル・ギリスに手布をお贈りするよう仰せつかっております」

 極めてうやうやしく、女官たちは盆の上のものをギリスに取るように促していた。

「ありがとう……でもこれ、多すぎだろ? 何枚あるんだ」

 布の蛇は、畳んだ白い手布を組み合わせて作ってあるらしく、ギリスが一枚取ると、蛇の胴体が一部だけなくなった。

 何枚あるんだ。スィグルも知りたかった。

 一枚でいいのに、なんでこんなもの持ってくるのかと、スィグルは戸惑って女官たちを見た。

「全部持てないから、後はキーラに届けてくれ。俺の部屋の侍女だよ。知ってる?」

 ギリスは気さくに女官たちに尋ねている。ずいぶん慣れた話ぶりだと思えた。

「もちろん存じております。わたくし共はキーラ様のご紹介でこちらに」

「あっそうなんだ。よろしく頼むよ。俺の大事な新星の殿下だ」

 ギリスはそういう割に猫でも預けるように気軽に頼んでいた。

かしこまりました。王族にお仕えするような器量ではないわたくし共に、このようなお役目をお与えくださり、恐悦いたしております」

 侍女たちが平伏してギリスに恐悦していた。

 僕にはしないのにギリスには恐悦するのだ。

「そんなのどうでもいい。賢さが大事なんだ」

 ギリスが微笑んで言うと、女たちはさらに恐悦して見えた。

 いやいや、お前、昨夜はあんまり美人じゃないってケチつけてただろうと、スィグルは内心で思った。

 事実、部屋付きの女たちは姿も特に際立ってはおらず、地味な御面相ごめんそうだった。

 玉座の間ダロワージで働く者たちのように、一目見て驚くような美貌ではない。

 でもそんなの問題ではないって、僕も思っていた。昨夜僕はそう言わなかっただろうか。

 それがちょっとエル・フューメンティーナの容貌を褒めたあたりから風向きがおかしい。

 砂まじりの冷たい逆風が吹くのを感じ、スィグルは戸口のあたりで微笑み合っている者たちを遠くから眺めた。

 ギリスは前はどこに仕えていたのか、出身はどこかといった、どうでもいいような雑談を女どもとしていた。それに女官たちも嬉しげに答えている。

 英雄は女官にもてるものだ。なにしろ部族の英雄なのだから。

「ギリス……」

 あまりの所在なさに、スィグルは思わず射手を頼る声になった。

 女官たちと和やかに話し込んでいないで、こっちにもなんとか言ったらどうなんだ。

 呼ばれてやっと気づいたように、ギリスがこちらを見た。

「あ、スィグル。これ、ありがとう。お前って大袈裟だよな。手布一枚にこんなに利子つけて返さなくても、俺は気にしないのに、景気のいい奴だ。この調子でヤンファールの命の借りも、何倍にもして返してくれよ」

 にこやかにギリスは言った。上機嫌らしかった。

 やっぱり返さないといけないのか、ヤンファールの借りを。

 命の恩人だもんな……。

 それが当然でございますという目で頷いている女官たちがギリスの側で笑っているのを、スィグルは近寄りがたく眺めた。

 お前たち、ちゃんと笑えるんだなと思いながら。

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