063 新星の守護者
スィグルが侍女たちに追い立てられるように早朝の風呂から上がると、もうギリスが部屋に来ていた。
入っていいとは許していないのに、いつのまにかギリスは迎えの間に通されており、からっぽの首座の前に退屈そうに座っていた。
「来るのが早すぎるだろう」
まだ浴後の肌着のままで、これから着付けをするところだったのに、挨拶しろと侍女に追い立てられて、ギリスに目通りさせられた。
一体どっちが主人なのか全く分からない。
認めたくないが、女官たちは明らかにギリスのほうを尊重していた。
「ジェレフの見送りに行ったら寝直す時間もなくてな」
暖炉の側で髪を
昨夜見たのとは別の礼服をギリスは着ていた。
真っ黒な服だ。それを着ているとギリスは魔法戦士らしく、どことなく恐ろしく見えた。
昨夜の白っぽい布地のほうが似合っている気がする。軽やかに見える。
なぜ着替えてきたのか。前の方が良かった。
そうは思うが、本当はこちらのほうが、似合っているのかもしれなかった。
一昨日に見た、兵を蹴り倒した時のギリスの迷いのない様子を思い出すと、昨夜の晩餐の広間で見たエル・ギリスは必要以上に爽やかに見え、あたかもヤンファールの
それが本当の姿か分からない。どちらが本当なのか。
用心するべき相手なのだったら、用心したくなる姿でいてもらうほうが楽だ。
「朝飯食った?」
用心する気も起きないような
「まだだよ。まだそんな時間じゃないだろう。皆まだ寝てるんじゃないのか」
「そんなことない。俺は起きてる」
そこまで
射手なるものが、そこまでの権力を持っているのか、スィグルは知らなかった。
でも、そういえば父の射手であったエル・イェズラムも、まるで父の本当の兄のように見えた。
玉座で族長冠を
皆が頭を下げている時に何事か起きたら、族長を守れないだろうという理屈だ。
それが時には朝議の高段にいるのが、スィグルには不思議に見えた。
まるでイェズラムが父と共に皆の叩頭を受けているようで、そんなことがあって良いのかと疑問だった。
父上は永遠の蛇の冠を身に帯びた、唯一無二の玉座の君だ。
そのはずだった。
「ギリス。来るのはいいけけど、時刻を決めてくれ。いつ来るのかわからないんじゃあ、僕も
身支度するのを眺められるほど親しくはないはずだった。
部族の者たちは親しい者なら一緒に
並んで蒸されるほどにはまだ、打ち解けていないだろう。
ギリスたち竜の涙が、どうやって生活しているのかは知らないが、馴れ馴れしいのではないかと思えた。
「遠慮しろ」
首座のあるほうを振り返って命じると、ギリスはもうこちらを見ておらず、物珍しげに部屋の調度品に目をやって、
それにムッとして、スィグルは声を荒げた。
「僕の部屋で吸うな」
ギリスはその声にびっくりしたようで、そのギリスに
「なんで?」
ギリスはまたこっちを見て、きょとんとしていた。
「なんでって、お前は無痛のエル・ギリスなんだろ。それは鎮痛のための煙だ。必要ないだろう、お前には」
「そうだけど、暇だし、皆吸うもんだろ?」
英雄たちの
それを止めるのも
でもギリスは違うだろう。
英雄たちに鎮痛の薬効を与えるための
温暖で湿潤な地方でしか栽培できない樹木から採れるらしい。
第四大陸では湾岸地帯でしか無理だ。だからそれを隊商をやって運ばせている。
タンジールでの栽培も試みられているらしいが、英雄たちはなぜか外国産を好むようだ。
理由はわからないが、おそらく薬効が強いのだろう。
ほかにも高い鎮痛効果のある薬が部族領内に産するが、それは父の代で禁制品となった。
薬効が強すぎ、常用するのに向かないせいだ。有り体に言って気が狂うような薬らしい。
それでも生きていられれば良いというものではない。魔法戦士は戦えないと、生きている意味がないのだ。
そう決めたのは父だ。族長リューズ・スィノニムが即位後にそう号令した。
それゆえ英雄たちの苦痛を癒すために、湾岸への隊商が常に行き来し、薬剤の購入に巨費が投じられている。国庫の金が。
だから喫煙を控えろと言うつもりはないが、魔法戦士にはそれでなくても金がかかるのだ。
莫大な俸禄も与えられている。彼らに純王族並みの暮らしを約束するためにだ。
戦わないのであれば、それは王家の
「僕は嫌いなんだよ。その煙の匂いが」
思わず悪態をつくように言ったが、それはスィグルの本音だった。
それを絶え間なく吸うようになった者は、もう長くは生きない。
それを見るのが嫌なのだ。彼らは苦しみ、最後には自決する。
それは、潔い死として讃えられる、彼らの英雄性の一部だが、たとえ詩の中ででも、スィグルは彼らが死ぬのを見るのが嫌だった。
心が痛む。どうしていいか分からなくなるのだ。
ヤンファールの
どこまで臆病かと情けないが、自分のせいでギリスが死ぬのではないかという心配が、耐えがたかったのだ。
実際には生きた現物に会っているのだから、ギリスがヤンファールの
だが、ギリスはどうなのだろう。長生きすると未来視のアイアランがギリスに予言したというが、本当なのか。
「
やめろと言うのに、ギリスが火を消す気配はなかった。
「実は痛いのか、お前? 無痛のエル・ギリスは嘘か」
もしそうだったら気の毒かと、スィグルは
ほとんど表情のない顔なので、最初は分からなかったが、ギリスにも表情はある。
目を見ればわかる。怒っていることが。
ギリスは侍女が持ってきていた煙草盆に、かつんと高い音を立てて
「飯は」
腹が減っているのか、ギリスは空になった銀の長煙管を手の中で
「まだだって言っただろ。でもいらないよ。空腹じゃない」
「何言ってるんだ。朝飯はちゃんと食え。そんなにひょろひょろで恥ずかしくないのか」
透かし見る目でこちらを眺めてきて、ギリスが批判していた。
それにはスィグルがむっとする番だった。
失礼なやつだ。気にしていることを。
「今日は忙しいぞ。朝議の後には博士のところに行こう。史学の
「なんで僕が行くんだよ。博士が来るものだろう」
侍女に
ギリスはそれに
「なんででもだよ。とにかく行こう」
面倒そうにスィグルをあしらい、ギリスは恐縮したらしい侍女が持ってきた果実水らしきものを銀杯から飲んでいた。
「そういうことなら教えは受けない。僕は史学を学びたい訳じゃない。そんなのもうとっくの昔に憶えたし。学者どもに馬鹿にされる
「お前の親父に教えた
急に教えられた道理にかなう話に、スィグルは
そんな話は知らないが、知らないだけなのかもしれなかった。
当代の
隠されているから知らないのだろうが、それにしても薄情な息子と言えた。
父リューズが即位に当たり
「俺も一緒に聞くから、ひとりぼっちじゃないし安心しろ」
ギリスは子供を励ますような口調で言ってきた。
その優しい兄のような口調に、スィグルは内心、少したじろいだ。
侍女たちは次々に無言で服を着せて来るし、ギリスは保護者面だし、まるで子供になったみたいだ。
このタンジールでは、王族とはそういうものかもしれなかった。手のかかるお荷物だ。
「そんなの心配してないよ」
渋々とスィグルは悪態めいて答えた。
「チビだから寂しいのかと思った」
ギリスはあけすけにそれを口に出して言った。
スィグルはムッとしたが、呆気に取られもした。ギリスの口ぶりはあまりにも率直すぎる。
それに少々、こっちを馬鹿にしているのではないか。まるで子供扱いだった。
「まだ僕に怒っているのか、お前は」
そうなのかと疑って、スィグルは用心深く尋ねた。
ギリスも皆と同じように、本音では怒っているのかもしれない。
そう思ったが、ギリスは実にあっさりとしていた。
「お前に怒ってたことはないよ。俺は腹も立たないほうなんだ。お前の馬鹿舌と同じで、痛いとか苦しいとか、普通のやつが思うようなことが、ぼんやりとしか分からないんだよ。気にするな。怒ってるわけじゃない」
あんぐりとして聞くスィグルに、ギリスは自分の額に生えている霜降りた氷のような白い色合いの石を指さして見せた。
「これのせいだよ。お前のせいじゃない」
そう言われると、目のやり場に困った。痛ましいような気がして。
「そうか。生まれつきか」
「たぶん?」
「
スィグルはうつむき、同情して言った。石のせいで不足を強いられるのは不自由だろうと思ったのだ。
でもギリスはけろりとして見えた。
「別に。俺が鈍いせいでお前も助かったんだ、それに感謝してくれ」
面倒そうに話すギリスは気を悪くしているようにしか見えなかった。帯を締めてくる侍女に息の根を止められそうになりながら、スィグルは押し黙った。
「どういう意味だよ」
「ビビると魔法は使えないんだ。訓練では強い魔法を持ってたやつが、戦場に行くとビビって魔法が発動しないこともある。俺は無いけど、そういうことは。お前にはあるだろ。一昨日だって、ビビらなきゃお前でも俺を殺せたんだろうしな」
それが何でもないことのように、ギリスは話していた。
ギリスが衛兵を蹴倒した時のことを言っているのだろう。
確かにあの時、自分には殺意があったのかもしれない。念動術でギリスを倒そうとしていた。
その、倒すというのが何を意味しているのか、自分ははっきりとは考えていなかったかもしれない。
ギリスを殺したくはなかった。
そもそも人を傷つけることを自分は好まない。
そのはずだった。
でもギリスは今じっと、そういう目で自分を見ている。
お前は、やるとなったらやるような奴だと。
「お前を殺す気はなかった」
謝罪のつもりで、スィグルは説明した。害意はないと。でも嘘かもしれなかった。
ギリスは淡い笑みだった。
「だから撃てないんだよ。やる時は、殺す気で行け」
至極あっさりとギリスは教えてきた。
やる時って何だよ。スィグルはそう思ったが、黙っていた。
着付けの侍女たちが何人も広間にいたせいだ。
女の前でする話とも思えなかった。
スィグルの母は臆病なたちで、かつては幼い息子たちがおもちゃの弓でやる戦いのごっこあそびさえ、恐ろしがっていた。大人しく息子たちが本や絵巻物を読んでいる物静かな様を好み、双子が兄弟喧嘩でお互いに暴力など振るおうものなら、青ざめて弱々しく叱ってきた。
仲良くして
助け合って生きよと母に涙ながらに言われ、幼い日には何度も反省させられたものだ。
だから自分は物静かで優しい子なのだとスィグルは思っていた。
そうでなくては母上がお困りになるだろうと。
だが現実には違った。自分は、ギリスが言うとおり、やる時にはやるような性分だったのだ。
元服の旅の一行が襲われた時、初めて人を殺した。
そのことを普段は思わぬようにしている。何かの間違いだ。仕方がなかったのだと自分に言い聞かせて、心の奥深くに記憶を押し込めているが。
あの時襲ってきたのは同族だった。敵ではない。
初めての殺しが同士討ちとは。
それを今まで誰にも話していない。その場に共にいた弟とさえも話したことはなかった。
スフィルは魔法が使えないせいで、あの時その場でただ母と震えているだけだったのだ。
自分だけが抵抗し、同族殺しに手を染めた。
しかし十二歳やそこらのひ弱な王族のチビが敵うような相手ではなく、気絶させられ、死んだと思った後に、うっかり目覚めたせいで地獄以上の場所にいた。
何かの罪を犯し、罰を受けているのかと思った。きっとここが地獄なのだと。同族殺しの罰だ。
それでも
スフィルは怖いから殺してくれと言った。泣きながら。とても自ら命を断てないと。
そんなのはこっちの
弟を殺したいと思ったことはない。
どんなに酷い喧嘩をしても、その日の晩にはふざけあって一緒に寝ていた。生まれる前から一緒にいた自分の片割れだ。
それをこの手で
それが罪だというなら、そうだろう。この王宮では自分は罪人なのだ。
別にそこから逃げる気はない。あの場にいなかった者に、何が分かる。
そうは思うが、当座の問題はそれだった。タンジールではどうも皆がスィグルに怒っている。部族の面汚しだと。
何故そうなるのか。
むすっと押し黙っていると、いかにも退屈そうにギリスが話してきた。
「お前は考えすぎだ。戦う時は考えなくていい。やるべきことをやるだけだ」
何もかもを許すような口調で、ギリスが語りかけてきた。
それでもスィグルは不納得だった。
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