062 森の中
目覚めると部屋の天井があるはずの場所に巨大な花が見え、スィグルはびくりとした。
それに怯えてから、そこが新しい自分の居室であることを思い出し、ぐったりと脱力した。
あまりよく眠れなかった気がする。慣れない寝室だった。
全身が痛いほど
実際、新しい寝室はまるで森の中か、自分の身がひどく小さくなって、草むらの中で寝ているような趣向だった。
巨大な草花に見える装飾が壁面を飾り、花や草の葉のようなものが天井を覆っている。
この世界で一番贅沢な野宿だったとも言えるだろう。
奇妙な部屋だった。
ひどく洗練されて見え、美しいが、草をかき分けて巨大な何かが今にも自分を見下ろしてきそうだ。
それがどことなく恐ろしくて、スィグルはいつもに増して自分がちっぽけに思えた。
トードリーズ。どういう趣味なんだ、お前は。
王族らしい絹の夜着で寝台に寝転がったまま、スィグルは天井を見上げ、この奇妙な部屋を作った工人のことを思い出していた。
腕はいいはずだが、変わった奴だ。
もしトルレッキオでも十分な時間が与えられていたら、あの学寮を壊して、こんな奇妙な部屋を作っていたのだろうか。
それはそれで楽しいが、こんな草むらみたいな中で眠らされたら、イルスは怒っただろうか。
でもシェル・マイオスは喜びそうだった。学寮ではいつも、部屋で眠るのが
こんな部屋がもしトルレッキオにあったら、あいつの故郷に似ていたのかもしれなかった。
それを思うと、スィグルは少々皮肉な笑みになった。
考えてもしょうがなかった。もうここには居ない者のことなど。
彼らは今は遠く、シェル・マイオスは故郷の森の中の
イルスは海都サウザスにいるはずだった。
どちらも遠い。
そして天使ブラン・アムリネスはまだあの学院があるトルレッキオにいるはずだが、鷹は今ごろどこを飛んでいるのだろうか。
あの天使に送った通信文の一言一句をスィグルはもちろん憶えていたが、シェラジールに持たせた手紙に
手紙にはこう書いた。
故郷に帰ったら、僕を即位させるという者が待っていた。信じられる?
でもそいつが僕の弟を殺そうとするし、侍女を脅して怯えさせ、衛兵を倒してしまった。
とても腹が立つ。
でもこいつは僕の故郷の英雄で、魔法戦士だ。
僕はどうすればいい。
弟を害そうという者を絶対に許せない。
だけど、このエル・ギリスなる英雄は、僕の命の恩人らしい。ヤンファールで僕を救ったのはこいつだ。
部族のために死闘した英雄だ。一人でシェル・マイオスを十四回も殺せるような魔法戦士だ。
もしその
そんなものを僕は、敵に回すべきじゃない。でも腹が立つんだよ。何とかしてくれ。
幸い弟は無事だったけど、ギリスをとても怖がっている。僕も正直、恐ろしいよ。
それでも僕の故郷では、魔法戦士を支配することが、部族領を支配することだ。
僕らは停戦によって、彼らに死後の楽園を約束する
その
もしもあの鷹が今も賢く忠実であれば、そのはずだった。
今頃どこまで羽ばたいていったのか。いつ頃、天使のもとに降り立つのだろう。
広い寝台に身を起こし、スィグルは深いため息をついた。
なぜあと一日待てなかったのか。
そうすれば分かったはずだ。ギリスは今回も僕を助けに来たんだということが。
どういう事情で助けてくれるのか全くの謎だが、でも実際問題として、あの英雄に救われてる。
一度目はヤンファールで命を。今回もそうでないとは言えない。
エル・ギリスの助けがなければ、そのうちどこかで人知れず命を落としていたかもしれず、今もその恐れは十分にあった。
考えても仕方がないと思い、悩まないようにしていたが、考え始めるときりがないからだ。
朝飯に毒が入っているかもしれないし、どこかから飛んできた矢に当たるのかもしれない。あるいは怒った魔法戦士にいきなり燃やされるか、凍らされるかするのかも。
ギリスがそうしないだけ、ありがたいと思うべきなのかもしれなかった。
「お目覚めでございますか殿下」
まだ早朝と思えたが、部屋付きの侍女が戸口から声をかけてきた。
えっと思い、スィグルは軽く慌てた。
知らない女達だ。昨夜から仕え始め、寝支度も無言でぎくしゃくしていた。まるで地獄の牢屋の看守みたいに愛想がない。
子供の頃に世話をしてくれていた侍女達は皆、美しくて優しかった。
祖父が治めていた、母の故郷でもあった地方の女たちで、母が嫁ぐときに連れてきた女官たちだったせいだ。
皆、華やかで可愛らしい顔立ちで、姫君が産んだ族長の息子たちを大切に世話して、最後は無惨に殺されて死んだ。
王宮の者たちは皆、その女たちが王子に食われたのだと思っているらしい。
それは誤解だと言いたかったが、大差はないのかもしれなかった。
自分たち兄弟と母を守ろうとして死んだのだ。
思えばなぜそうなったのか。護衛の魔法戦士もおらず、弱い兵しか付き従っていなかったのか。
あの時も
ギリスに言わせれば王宮で一番弱い兵なのだろう。王族の護衛につく階級の者たちではなかったのだ。
その時から既に自分たちは何かの術中にいたのだろう。
誰が首謀者だったのか、今もって分からない。
父はそれを追求しなかったのか、したものの不問に処したかだった。
一族の恥だ。王子同士が殺し合うなど。それを明るみに出すよりは闇に葬るほうが、部族のためと父は判断したのだろう。
この部族の者は同士討ちを嫌う。同族殺しをする者は呪われると信じている。
そのせいで王家は呪われているのかもしれなかった。
代々、親が子を、兄が弟を殺してきた血筋だ。
即位にあたり、自分もその呪いにかかるのだろう。
それよりはまだしも道を譲って絹布で絞め殺される王子の方が清らかで、楽園の門を容易にくぐれそうだった。
父上でさえ、兄弟殺しの罪を負っている。
実際に伯父たちを絞め殺したのは父上ではなく、魔法戦士たちだが、その罪を彼らが背負う訳ではない。
王家だけが呪われているのだ。
こんな血筋に生まれて、嬉しかったことはない。
それでもアンフィバロウの末裔であることは自分の誇りで、逃れようがなかった。この永遠の蛇の
「お召し替えを。ご入浴なされますか。お食事をお持ちいたします」
手際の良すぎる侍女がてきぱきと朝の用件を伝えてきて、こちらの話を全く聞いていなかった。
「朝議の前にエル・ギリスがお越しになられます。そのようにご伝言が。殿下にはご朝食を済まされ、正装なさってお待ちいただきたいとのことでございます」
侍女はそれがさも当然かのように言ってきた。
スィグルはまだ寝台の上で、
「嫌だよ。魔法戦士に
きっぱりと言ったが、それに侍女もきっぱりと答えてきた。
「ヤンファールで武功のあるお方でございますよ、エル・ギリスは。ただの英雄ではございません。殿下といえど礼節もございましょう」
眉を
ただの侍女に。
アンフィバロウの血筋の子が、女官ふぜいにそんなことを言われる筋合いではないと思うが、この女の言う通りなのかもしれなかった。
ヤンファールの
エル・ギリスがまだ少年でありながら我が身を捨てて玉座に仕える忠節の物語で、父リューズが突撃するギリスを見送る場面がある。
息子を救おうと思わずとも良いと、そこで族長リューズはギリスに言うが、その父にギリスが答える。殿下は
ギリスはそうとしか言わないのだが、父がそれに落涙する場面があり、詩人も涙ながらに
どうもそこで聞く者は皆、泣くらしい。
ギリスが本当にそう答えたか怪しいと、ギリス本人を知る今では思う。
そう答え突撃したギリスが次々と
十四体。
それも事実だとギリスは言っていたが、偶然にも、ヤンファールで戦った時のギリスの年齢と同じ数だった。
王宮で育てられた年々の恩を、その年齢分の数で返したのだと詩人は
そして最後の
涙なしには聴けない
どんな
でも本当なのかもしれなかった。
ギリスが最期にエル・イェズラムのことを考えていたというのは。
本物のギリスの様子を見ている限り、彼がエル・イェズラムを
でもあまりにも
二歳しか歳の変わらない王族の殿下を助けるために自分は死なねばならず、しかも感謝して逝けというのは、
聞く者も皆そう思うのだろう。
だからジェレフが助けに現れた場面で
王族の殿下はこの際どうでもいい。
とにかくエル・ギリスが助かるほうが大事だ。
長年屈辱を舐めたヤンファールで、部族に奇跡の大勝利を与えた英雄なのだ。
それを指揮した族長リューズも凄いが、その期待に見事に応えたエル・ギリスもそれに匹敵する。
おそらくこの侍女も内心ではそう思っているのだろう。
それに引き換え、王族の殿下はと、皆、期待はずれに思っている。
侍女は恐ろしく冷たい目でスィグルを見ていた。
着任初日ゆえ緊張しているのかもしれないとスィグルは思おうとした。
そんなはずはなかった。
「まずご入浴なされませ殿下。身綺麗になさってお迎えなされたほうがよろしゅうございます」
侍女が真顔でそう言っていた。
汚れた猫でも見るように。
「よほど偉いのだな、エル・ギリスは」
「英雄でございますゆえ」
当たり前のことも知らない馬鹿を見る目で言われた気がする。そう思うのは卑屈になっているせいか。
無礼だぞお前。別に這いつくばって
こっちが主人で、エル・ギリスは偉いのかもしれないが、でも家臣だ。目下なのだぞ。
スィグルはそうは言わなかったのに、侍女がきっぱりと付け加えた。
「エル・ギリスは殿下の兄上様でございますよ」
ディノトリスだもんな。
スィグルは呆れて思ったが、仕方なく
こちらの服を着せたり脱がせたりする女どもに逆らっても無駄だ。
こいつらが居ないと、この王宮では僕は、自分で服も着られない馬鹿なのだから。
そう思うと情けなかった。
別に懐かしむつもりはないが、トルレッキオは気楽なところだった。
服は自分で着られたし、靴だって自分で履けた。
部族の衣装の着付けでは、王族は最後に儀礼用の高い靴を履くため、重い衣装を身に
聞いた話では、父は普段はその靴は履いていないらしい。履くとさっさと歩けないからだ。歩きにくい。
族長である父がもう履いていないのに、なぜその息子たちには履く義務があるのか。旧来の大仰な衣装と靴で着飾って、人形のように座っていなくてはならない。
ギリスにそれを言えば、おそらく、お前が戴冠したら廃止すればと言われるのだろう。そんな気がする。
あいつに言わせれば、将来の即位はもはや既成事実のようで、自信など全く無かったはずの自分までもが、妙にその気になってくる。
それも、あの氷の蛇が使う魔法なのだろうか。
今朝も来る気かと
どう思えば良いかも分からぬ。
せめて美しい装飾を眺め、良い気分になろう。
その部屋をスィグルに与えたのもギリスだったのか。何から何まで守られている気がした。
これが魔法戦士の守護かと、スィグルは気に食わなかった。その安堵感が。
側仕えの治癒者、不戦のシェラジムによって骨抜きにされていたという祖父、暗君デールのことが、今の自分とそう変わらない気がして、気持ちの手綱がうまく取れずにいた。
自分も暗愚なのかもしれない。聡明だったはずの祖父が、あのような暗君であったのは、シェラジムのせいだ。
ギリスと自分がこの先そうならない保証はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます